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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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 マックス・リューティに関する講義が続いたので、まとめていきます。
 昔話を解釈する際に、登場するアイテムや要素のひとつひとつに拘ると、大きな誤りに陥ることがあるそうです。
 例えば、有名なところではユングによる赤ずきんの解釈ですが、ユングは赤ずきんのかぶっていた頭巾の「赤」を深層心理的な象徴として解釈しています。
 しかし御存知の通り、赤ずきんに赤いずきんをかぶせたのはフランスのペローであり、原型となったであろう元々の昔話には「赤」などと言う色は登場しないことを、後年指摘されています。
 まさしく、細部にこだわった結果、このような誤りに陥ってしまうわけで、この意味でマックス・リューティの主張は正しいわけです。
 講義の内容は、概ね以上のようなものでした。

 これは、「細部にこそ注目する」という私の姿勢とは180度とまではいかないものの、かなり異なります。
 そもそもの主張が「この昔話はなにを伝えようとしていたのか?」という疑問からはじまっているところに、ひとつの齟齬があるのではと感じるわけです。
 私がグリムに関してこれまでに書いてきたことで、特に気をつけていたことですが、私はグリム童話について考察するときには必ず「グリムの意図」というものを重要視しています。
 というのも、ぶっちゃけた話になりますが、正直なところ、歴史的・民族学的な視点ではグリム童話はグリムによる改変が多すぎて参考にすることができないからです。実際、ドイツ民俗学に関しては同じグリムの「ドイツ伝説集」のほうが、より原型に近い物語がたくさん収録されており、「ああ、これがグリム童話のあの話に混ざったんだな」と見受けられる話も多数見つけることができます。
 (誤解なきよう加えておきますが、ではグリム童話には資料的価値はないのかというと、間違ってもそんなことはありません。それどころか、ドイツを中心とした中世ヨーロッパにおける価値観、死生観、常識など、資料の宝庫と言えます)
 よって私は、基本的にグリム童話とは「昔語を楽しむための童話」と捉えており、「グリム童話を通して原型となった物語の意図を直接読み取ること」はしておりません。そこから読み取れるのは「昔話の意図」ではなく、実は「グリムの意図」であることが、往々にしてあるのです。
 では逆に、これを突き詰めたら? という考えに基づいたものが私の読み方です。

 先ほど「私の姿勢とは180度とまではいかないものの」と書いたのは、別にマックス・リューティに敬意を表してのことではなく、いわゆる「細部にこだわったがゆえの矛盾」は、「昔話の意図」として解釈すると失敗に陥るものの、「グリムの意図」として読み取れば矛盾なく繋がるのではないかと考えるからです。
 例えば件のユングの言う赤ずきんの解釈「赤は深層心理を表している」という話ですが、これを「(昔話としての)赤ずきんの物語はなにを伝えようとしているのか」と読み取ると、ペローの時点で矛盾が発生します。
 現代と違い情報の少ない時代のことですから、実際のところ、赤ずきんに「赤」を付け加えたのがペローであることを、ユングは知らなかったのでしょう。しかしこの矛盾を笑うことはできません。
 なぜなら、この問いを「グリムは赤ずきんの物語を通してなにを伝えようとしているのか」と置き換えると、(この説におけるユングの意図はさておき)ユングの言う深層心理説でも矛盾なく説明できるからです。
 この意味で、グリムが「ペローのかぶせた赤いずきん」に深層心理におけるなにかしらの象徴を見出していた可能性を否定することはできません。
 そもそもの姿勢が「昔話の意図」を読み取ることにあるのか、「グリムの意図」を読み取ることにあるのか、それによって物語の解釈の仕方は変わってくるのではないかというのが、マックス・リューティに関する私の私見です。

 以前にも書いたことですが、「普段はディティールを書かないグリムが、あえて書いたディティールの部分」には、グリムが「これだけは外せない」と考えていた痕跡を見出すことができると思うのです。
 「原型らしき昔語」から「グリム童話」に変化する際に、グリムが原型に対し「どのように手を加えたか」のように、つまり以前の赤ずきんに関するエントリで書いた「引き算」の法則をあてはめて見ると、その「手を加えた部分」あるいは「手を加えなかった部分」にこそ、なにかしらのグリムの意図が垣間見えてくるわけです。
 10月19日のエントリ「ねずの木(柏槇)の話」において、ねずの木の薬効について言及しましたが、グリム童話にはこのような「露骨に不自然な描写」が非常に多く見て取れます。
 このような細部に注目してこそ、「グリムの意図」が、そしてグリムが子供たちに伝えねばと考えたであろう「昔話の意図」が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 そしてそのような「うがった」見方をすることによって、はじめて発見できるものもあるわけで、このあたりにもグリム童話の楽み方が隠れていると私は考えるわけです。



 さて、半年ほどに及んだグリム講座でしたが、次の木曜日で一応の最終回となります。
 来年は「アンデルセン童話およびグリム童話」を題材に、新たな講義をはじめるそうです。実のところ、私は昔話よりも創作が中心のアンデルセン童話にはそれほどの興味はないのですが、参加しようかするまいかかなり悩み中です。
 一度さらりと読んでみてから考えてみようと思います。
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 今日の講義は、マックス・リューティというグリムに関する研究をした学者についての考察でした。
 マックス・リューティはその代表著書である「物語の解釈」によって一時期はグリム解釈についての第一人者だったそうですが、現在では解釈の強引さや若干の矛盾などの指摘も多くされており、グリム解釈の材料として講義では扱われました。
 マックス・リューティは「いばら姫」を題材に次のような考察をしています。
 
――抜粋ここから――
この話の核心は何か? この話には何が述べられているのか? ヤーコップとヴィルヘルム(グリム兄弟)は、この昔話を古い神話の欠片と見なし、人生と世界に対する太古の直感的な見方がかわいらしい姿で残ったもの、と考えた。
(中略)
この昔話は死と復活を物語っているのだ。
(中略)
人間を取り巻く自然界の出来事ばかりでなく、人間の心の中の出来事もあらわされている。いばら姫は十五歳のときに魔法にかかるが、十五歳というのは子供から乙女への過渡期にあたる。大きな発展の境目に立ったり、人生のある段階から別の段階へ移っていくときには、人は決まって危険にさらされるような気がする。
――抜粋ここまで――
 
 情緒的な文章が多いので大幅に省略していますが、だいたいこのような論調です。
 これを否定するほど私も熟読を重ねたわけではありませんが、ある程度は違う見方をすることはできます。
 上記の抜粋を読んで、私がまず最初に想像したこと。かなり多くの人が同じものを想像したのではないかと思いますが、それは四コマ漫画です。
 マックス・リューティの主張とはかいつまんで言えば「いばら姫とは起承転結をもって自然の摂理を訴えている物語である」と読み取れるのです。
 それは一つの見方として正しいですが、しかし大きな弱点を持ちます。この理屈ならば「起承転結」をもって構成されるすべての物語について同じことが言えるのです。

 マックス・リューティの活動していた頃に比べ、私達が生活する現代社会は、それこそ物語に溢れ、小説にも漫画にも事欠きません。
 それらを作成する過程で「起承転結」なる構成は完全にメソッド化され、言ってみれば「物語を作る際の常識中の常識」と化しています。私も子供の頃、「四コマ漫画の書き方」などの本で読んだ記憶があります。
 このような状況の中で現代の多くの人がマックス・リューティの著書だけでは物足りなく感じるのは、ある意味当然なのかも知れません。
 そもそも、マックス・リューティの時代にはメソッドどころか「起承転結」なる言葉自体が存在していなかったのですから、グリム童話の中にこの構造を見出したマックス・リューティの眼識は、当時としては極めて先進的だったと評価すべきでしょう。
 

 
 私は、グリムを解釈する際には、アウトラインや全体の構成ではなく、あえてディティールの部分に徹底的に注目したいと考えています。
 マックス・リューティの著書の中に「昔話に出てくる人物は、個人として描かれてはいない。昔話には個々人の運命は描かれていない」とあります。
 その通りです。だからこそ、基本的に「ディティールを書かない」はずのグリムが「あえて書いたディティールの部分」には、何かしらの意図が隠されているのではないかと思うわけです。
 
 例えば、いばら姫に死の宣告をした魔女は「姫は十五の歳に紡錘(つむ)に刺されて死ぬがよい」と叫びます。
 ものすごく素朴な疑問ですが、なぜ物語のこのタイミングで突然、「紡錘」なるアイテムが登場したのでしょうか?
 ここまでの「ディティールを書かない」グリムであれば、「姫は十五の歳に死ぬがよい」と書いたほうが自然です。しかし、あえて「紡錘」というアイテムを、それも「唐突に」登場させました。
 一応、お話の流れとしては「王様が国中の紡錘を燃やしてしまった結果、紡錘を知らないお姫様はかえって興味をそそられて紡錘に触れてしまう」という展開へと繋がります。
 しかし、この展開にするためならば、紡錘である必要はありません。白雪姫のように櫛でも林檎でも、なんでも良いはずです。(むしろ、話の流れとしては林檎のような食べ物のほうが「お姫様が興味をそそられる」ような展開としては自然に感じます)
 グリム童話を素朴な目線で読んでいくと「赤ずきんにおける鉄砲」「七匹の子ヤギにおける柱時計」「ねずの木(柏槇)の話における鬱」など、「うん? なんでまた突然?」「これって昔話じゃなかったの?」と思うような表現にものすごく頻繁に出くわします。
 このようなところを、「あえて」深く突っ込むことで、思わぬ背景や、思わぬ意図が見えてくるように思えるわけです。
 
 ちなみに先ほどの答えを言うと、「紡錘」とは日本語訳された単語で、原文では「糸巻き(スピンドル)」のような言葉で表現されており、「糸車」を指しているとも解釈できるそうです。
 いずれにせよ、「糸紡ぎ」であることには間違いなく、そしてドイツの民話では糸紡ぎといえば「魔法」や「運命を司る道具」として扱われることが多いのです。(北欧神話の影響でしょう)
 グリム童話の中でも特に長編においては、複数の民話をミックスしたものが多くみられ、いばら姫もその例に漏れません。
 この紡錘という「運命を司る道具」をもって、まさしく姫の運命を予言した魔女は、北欧神話における「運命を司る三人の魔女(彼女らも糸紡ぎを使って運命を操ります)」か、それに類するものが原型になっていることは間違い無いと思われます。
 北欧神話を聞いて育った子どもたちならば、「紡錘」というキーワードによって、「絶対に避けられない運命的なもの」を感じたことでしょう。
 つまり、ここにおける「紡錘」とは、「魔女の力がいかに強いかを示すための小道具」であったと解釈することができます。
 
 では、なぜ魔女の力の強さを表現する際に「北欧神話に連なる紡錘というアイテム」を登場させたのかということですが……。
 ここまで引っ張っておいて申し訳ないのですが、私は一つグリムについて大きな推論を立てています。それを一連のグリム講座受講の総集編としてまとめたいと思っているので、その中で書いて行きたいと思います。
 後期2回目です。
 今気づいたけど、前回の講義をまとめていませんでしたね。
 後期から参加する方もいるようで、前回はおさらいということでグリムの生い立ちとかやってたんで、取り立てて新しい内容ではありませんでした。よって割愛しときます。



 今回は「ねずの木(柏槇)の話」を中心として、グリム童話の作品としての構成や食人行為などに関する話でした。
 構成としては、初版発行のものと第七版のものとを比較し、後になるに従いそっけない記述が文学性を帯びてくる点が目立ちます。
 追加された要素はいくつかありますが、
 ・単に説明していただけの文章に情景描写が加わる
 ・描写の中には明らかに白雪姫などと被る設定が見受けられる
 ・シリアスな物語の合間に、登場人物の間抜けな描写が散りばめられる(恐らくこれは話の緊張感をほぐすための緩急であろうと思われる)
 子供に読んで聞かせるというコンセプトで編集されたものなので、後の版になるに従って、おどけた描写などで聞き手を惹きつける工夫が凝らされています。
 DVD「ジム・ヘンソンのストーリーテラー」ではお爺さんが言葉を解する犬に語って聞かせ、犬が「ひどい!」とか所々で相の手というか感想を挟み、物語の重苦しさを緩和させる機能を見事に果たしていました。
 そのような機能が版を重ねるにつれて盛り込まれていったようです。
 
 また、ねずの木(柏槇)の話では露骨な食人描写が描かれています。
 私は以前のエントリで食人行為の根底にあるのは飢餓の記憶ではないかと書きましたが、講義によれば、食人行為における宗教的意義も無視することは出来ないようです。
 例えば南米のアステカ信仰などでは、敵の肉や先王の肉を食べていたことは広く知られています。
 敵の肉を食べるというのも色々な意味があるとは思いますが、特に先王の肉を食べると言う行為に限って言えば、「力(=権力)の継承」という極めて宗教的あるいは政治的な意図が見受けられます。
 中世ヨーロッパでも、死んだ聖人の肉を貪り食う民衆の話などが伝えられているそうです。
 また、キリスト教においても、キリストが弟子たちにパンとワインを振舞った際に、「パンは私の肉、ワインは私の血と思いなさい」と告げた例に見られるように、食人行為による力の継承という概念は、形を変えて様々なところに残っているのかも知れません。
 
 ここまで講義を聞いていて思い出したのですが、日本の葬儀にも「骨噛み」と言う、独特な風習を残している地域があります。
 火葬した骨の欠片を食べるのですが、もちろん骨を食べてもお腹は膨れません。この骨を食べる行為には、空腹を満たす以上の極めて宗教的(あるいは感情的)な動機があることが想像できます。
 そして、更に想像を深めると、あるいは「骨噛み」という風習は、形を変えて日本中の葬儀で当たり前に行われているのではないかという推測もできます。
 その根拠は、火葬した際には必ず「箸を使って」骨壷にいれることが当たり前になっていることです。
 なぜ、わざわざ「食器を用いて」骨を骨壷に移す必要があるのでしょう?
 骨噛みの風習は象徴化された形で残り、多くの日本人が意識せぬ間にそれを行なっているのではないでしょうか。


 
 「ねずの木(柏槇)の話」をじっくりと読んでみると、この話には興味深い「不自然な点」がいくつか見受けられます。
 まず、真っ先に思ったことは、タイトルの不自然さです。
 このタイトルは直訳されており、ドイツ語でも同じ意味だそうです。
 この物語は、アウトラインだけを追うと、「意地悪な継母に殺された少年が、鳥の姿になってあちこちで告発の歌を歌い、最終的に継母を殺して人間の姿を取り戻すお話」です。
 はっきり言って、ねずの木はほとんど関係ありません。物語だけを見てタイトルにするなら、私がグリムの立場であれば、まず間違いなく「歌う小鳥の話」と名付けていたことでしょう。
 では、ねずの木はこの話の中でどのように登場するのでしょうか。
 
 ①子供を望む母親が、ねずの木の下で手を切り、鬱になる。
 ②母親が、ねずの木の下で願望を口にすると、鬱から回復する。
 ③母親が再び鬱になり、ねずの木の下に行くと回復する。
 ④母親が、ねずの木の実を食べることで悲しみに襲われ病気のようになる。
 ⑤遺言に従い、母親はねずの木の下に埋葬される。
 ⑥マルレーン(妹)が、殺害された少年の遺骨をねずの木の下に埋め、それによって悲しみが晴れる。
 
 以上です。
 埋葬に関しては、物語として意味が見出せますが、①~④に関しては、まったく意味不明です。これらは初版の時点から記述されているのですが、物語の構成として必要だとは、とても思えません。
 そして、その上でこの不可解なタイトルが付けられているのです。
 ここまで書きだして明らかになるのは、「鬱」と「欝からの回復」と「ねずの木」には、強い関係があるということです。
 また、これに関連して、もうひとつ気になる描写があります。
 物語の終盤で、少年の復活を予感した(らしい)父親が、非常に良い気分になるのですが、その中で「そこらじゅう肉桂のにおいがする」と言います。
 ここにおいては、欝からの回復に際してねずの木ではなく「肉桂のにおい(スーッとした香り)」がキーポイントになっています。
 
 ここで、wikipediaにて「ねずの木(セイヨウネズ)」の項目を調べて見たいと思います。
 
 ――引用ここから――
利用
 この木はよく園芸用に使われるが、小さいため他の木材のように使うことはできない。しかしスカンジナビア半島では、バターやチーズなどの日用品を入れる入れ物や、木製のバターナイフとして加工される。
 
 収れん作用を持つ紫色の熟した松かさは生で食べると苦いが、乾燥させて肉、ソース、ファルス、ジンなどの香り付けに使われる。実際にジンという言葉はネズの類を表す フランス語: genevrier (ジュネヴリエ)もしくはセイヨウネズを表す genievre (ジュニエーヴル)に由来する。
 
 また味もとても強いため、ジビエや舌など、癖の強いものの調理に少量だけ使われる。フィンランドの伝統的なビール「サハティ」(Sahti)を作るためにも必須である。さらに、ローマ帝国のペダニウス・ディオスコリデスによる『デ・マテリア・メディカ』(『薬物誌』、『ギリシア本草』)には、避妊用に使われたと記述される。
 ――引用ここまで――
 
 利用法として、「乾燥させて肉、ソース、ファルス、ジンなどの香り付けに使われる」ことが挙げられており、ねずの木は、肉などの臭みを打ち消す(つまり、スーッとした)香りを持っていることが読み取れます。
 となると、①~⑥に示した「鬱」と「欝からの回復」と「ねずの木」を結びつけるものは「肉桂のにおい(スーッとした香り)」と考えることが出来るのではないでしょうか。
 
 結論を言いますと、この童話の原型は、日本で言うところの「お婆ちゃんの知恵袋」のような民間療法の一環で、古来、悲しみや苦しみによる鬱を癒すものとして「ねずの木」が利用されてきたことを伝えるものではないかと推測します。
 この民間療法の言い伝えに様々な肉付けが行われ、いつの間にか「小鳥になって歌う少年」の話へと変化したものと思われます。
 そう考えれば、各地の民話を蒐集していたグリムが、この言い伝えの根本にあった意義「ねずの木の薬効」を風化させないために、あえて「ねずの木(柏槇)の話」というタイトルを付けたのではないかという説明ができるわけです。
 岩波文庫の完訳グリム童話集を全巻読みました。
 一日に三~四話ずつ読んでいたので、随分と時間がかかりましたが、その分じっくりと味わえたと思います。

 翻訳者である金田鬼一氏の言い回しは、正直なところかなり古臭く、特に解説において仏教的な比喩が目立ったのですが、しかし、かなり原文の意図に忠実に訳されているようです。
 五巻の最後に書かれているのですが、金田氏はお子さんを二人、幼いうちに亡くされているそうで、それによって仏教の道へと入ったのではないかと愚考します。
 亡くされた子供たちに捧ぐものとして、その上で氏の主張を踏まえて改めて読むと、この古臭い翻訳にはまるで子供に読み聞かせるような、とてつもない愛情が感じられます。
 
 また、後書きで念入りに説明されていますが、しばしば「本当は怖い」などと話題になる通り、グリム童話には残酷な話も多々含まれています。
 しかし、それらの話を「残酷だから子供に見せるべきではない」と言う(ごく一般的な)論調を一蹴しています。
 氏の「『グリム童話』の取扱い方に関する私見」が書かれていたので、その一部を抜粋したいと思います。

――引用ここから――
 『グリム童話』には残忍な趣向があると言われるが、これは何も『グリム童話』に限ったことではない。私なども子どものころ、「ばばあ食ったじじいや、ながしの下の骨をみろ」とうたっていたことを想いだす。
(中略)
 要するに、『グリム童話』は、大自然の法則に法って正邪善悪の差別を教え、万物相互扶助のもろもろの生態を示して、その基調となる草木愛、すなわち対人間愛や対動物愛を超越した対植物、さらにまた対無生物の大乗的純愛の尊さを悟らせる。この心境が、楽あれば苦あり苦あれば楽ある長い旅路のいや果ての収穫でなければならぬ。『グリム童話』は、いわば大自然が書きしるし、人間これを読むとでも言うべき記録で、児童どころか成人にも読みちがえられてはならぬ。読みちがえなければ、『グリム』は世にも楽しい話の宝庫である。
(後略)
――引用ここまで――


 
 さて、内容についてです。
 正直、私は中世ドイツの民俗学を勉強することを目的として、言ってみれば「うがった見方」でグリム童話を読みました。
 金田氏の志とは大きく異なる方向性ではありますが、物語におけることの善悪や是非は横に置いといて、「なぜ、どのような背景において、このような民話・寓話が生まれたのか、伝えられたのか」に思考を巡らせることにより、昔のドイツの人々の生活風景や価値観を垣間見ようという試みです。

 まず、全体を眺めて、とても強く感じることがあります。
 それは、中世から近代にかけてのドイツの飢餓、飢饉の厳しさ、食料を失うことへの恐れです。
 その根拠として、グリム童話にしばしば登場する三つのキーワードを挙げたいと思います。
 
 一つ目は、食人行為。
 「柏槇の話」をはじめ、食人行為の描写はグリム童話では珍しくありません。
 既に触れたように、残酷な側面としてしばしば取り上げられるこの描写ですが、人が人を食べる状況とはなんだろうかと考えると、やはり極限状態の飢餓が真っ先に思いつきます。
 諸説ありますが、有名な赤ずきんは元はかなりエロチックな話で、類話の中でも古いものには「狼の言うままに、上着から下着まで、一枚一枚脱いでは暖炉に放り込む」と言う、露骨なストリップ描写も見受けられます。
 その上で、狼の待つベッドに入るわけですから、ここで「狼に食われる」と言う言葉がなにを暗示しているかは言うまでもありません。
 ペロー童話の時点ではこの露骨な描写はなくなっていたようですが、ペロー童話は元々宮廷サロンの女性向けに書かれたという点、「少女がベッドの中で狼に食われて物語が終了する」という点において、やはり性的な暗示を免れません。
 しかし、グリムはこのあとに「狩人が狼の腹を裂いて赤ずきんとおばあさんを助け出す」と言う描写を追加しています。もちろん、性行為の結果としてお腹の中に入るはずがありません。グリムの「赤ずきん」においては、狼は赤ずきんを性的な意味ではなく、文字通りの意味で「食べた」ことになります。
 つまりグリムは赤ずきんにおける「見方によっては性行為を表していると受け取れる描写」を「明らかな食人行為の描写」へと変化させているわけです。
 この点一つを取っても、グリムが童話の中において「食人行為」にある種のこだわりというか、「欠かすことの出来ない要素」としての認識を持っていたと感じ取れる気がします。
 
 二つ目は、魔法の宝物。
 善人が善行を行った結果、神様や聖人に魔法の宝物をもらう話は、グリムにおいても一つや二つではありません。
 では、その魔法の宝物はどのようなものでしょうか。
 神様や聖人が「三つの宝物」をくれる場合、これは同じ類話を起源に持っているからかも知れませんが、必ず登場するものがあります。
 金貨を吐き出すロバや、どんな敵をも打ち倒せる武器だったりしますが、なんといっても筆頭に出てくるのが、「ご飯のしたく!」と言うと最高級の料理が無限に出てくる御膳です。
 これは、必ずといって良いほど、間違いなく「筆頭に」登場します。
 ここには、昔の人々が「魔法の宝物/神様の奇跡」になにを望んでいたのか、逆に言えば、生きていく上で、「なにを最も恐れていたのか」が現れていると考えられます。
 昔のドイツの人々は「魔法の宝物はどんなものが欲しい?」と言う問いに対し、何にも優先して「食べることに困らない宝物」を求めていたことが伺えます。
 当時の人にとって、金貨などよりも、戦う力などよりも、まず何にも増して「食べもの」こそが最も尊い宝物であったのは間違いないでしょう。
 
 三つ目は、くるみ。
 グリム童話には「三つのくるみ」がしばしば登場します。
 くるみとは、もちろん硬い殻の中に食べものが入っている植物です。(日本のくるみは「鬼くるみ」といい、特別硬いもののようですね。西洋のくるみは形状こそ同じですが、もうすこし柔らかいようです)
 グリム童話の中ではくるみの殻には食べものは入っていません。
 しばしば、王女様が想い人を取り戻すためにくるみを授けられたり、何らかの手段で入手します。
 そして、くるみの中には太陽や星のように綺麗なドレスが入っていたり、無限の金貨が入っていたり、同じく無限の宝石が入っていたりします。
 いずれにせよ、入っているのは「食べもの」ではなく、むしろ「食べられない財宝」です。
 つまり、グリム童話において、「くるみの殻」は「宝箱」として登場するのです。
 もしも、なんの前提も先入観もなく、「素晴らしい宝物が出てくる入れ物」を持って行くとしたら、小袋とか、小箱とか、そういったものが先に出てくると思います。しかし、民話や寓話では、袋や箱ではなく、くるみに宝物が詰まっています。
 なぜでしょうか? 当時の人々にとって、くるみの殻とは、神様が食料を与えてくださる際の「宝箱」に他ならなかったと考えるのが妥当です。
 「くるみの殻の中に詰まっているもの」は、それこそ「無限の金貨」「無限の宝石」に匹敵するほどの価値があるものだったのです。

 グリムがどのような意図をもってこれらの話を編集したのかは知るよしもありませんが、しかしグリムが蒐集した民話や寓話の中に垣間見えるこれらの要素からは、「その話が生まれた当時、なにが最も尊ばれていたか」を推測することが出来ると思うわけです。
 

 
 ここまで飢餓に対する恐怖を書きましたが、同時にグリム童話には不可思議な特徴があります。
 それは、死生観です。
 グリム童話において「死」と言うものは、まったく恐れる必要はないものとして描かれているように思います。
 特に、五巻の「子供のための聖者物語」においてその傾向は顕著になり、やもすれば「死ぬことの大切さ」を説いているのではを感じる話さえあります。
 また、死んだ人間はいとも簡単に蘇りますし、死んだあとにも人格を持ち続けて天国やら地獄やらをうろつきます。
 「飢餓は恐れるが、死ぬことは恐れない」こんな矛盾を感じるわけです。
 あるいは、食べものもなく、死を目前にした子供を安らかに眠らせるために、このような民話が作られたのかも知れないと言うと、あまりにも悲観的すぎるでしょうか。
 もっとも、中世後期までは終末説(近いうちに世界は終わり、すべての生物が死に絶えたのちに、善人(貧者)だけが復活するという考え方)がかなり強く信じられていたので、死に対する恐怖というものが、現代の我々の尺度とは比べ物にならないほど軽かったという点も挙げないわけには行きません。
 言い方を変えると、善人(貧者)ほど死に対する恐怖は少なく、悪人(富者)ほど死に対する恐怖が強かったとも言えます。

 別の側面から見ると、中世ヨーロッパにおいて、街の中で生活することが許されない農民(人口の90%を占めていたそうです)は、土地を荘園化して、領主の庇護を受けることにより身を守りました。
 しかし、ドイツと言う国は一七世紀にヴェストファーレン条約が締結されるまで、各領主がてんでバラバラに争っている状況でした。(一応、国も無いわけではありませんでしたが、かなり不安定な状態でした)
 ヴェストファーレン条約がどういうものかというと、簡単に言えば「戦争のルールを決めた条約」です。つまり、ヴェストファーレン条約以前には戦争のルールさえもまったく決まっていない、要するに無法地帯だったのです。
 荘園制度も(事実上)ないような状態では、農民を保護するものは何一つなく、どこぞの領主が戦争一つはじめるだけで、麦も作物も略奪され燃やし尽くされ、いとも簡単に飢饉が発生したのです。
 日本の歴史に照らし合わせれば、「歴史が始まって以来、一七世紀までずっと戦国時代」と言ったところでしょうか。
 彼らにとって、飢餓や死とは、ある日突然襲いかかってきても何の不思議もない、日常の一部だったのでしょう。
 そんな死生観の中で、圧倒的多数を占めるであろう貧しい民衆の中で「死を肯定するために」生まれたのが、このような物語なのだとも思えます。

 天沼先生の講義によれば、兄ヤーコプ・グリムはグリム童話初版発行の二五年後、ハノーヴァー国王の横暴に抗議声明を出し、追放された結果、自由のために戦う士としてドイツ国民の尊敬を受け、国会議員にまでなります。
 その背景には、それまでに蒐集した民話・寓話から感じたドイツ民衆の切実な思いがあったのかも知れません。
映画「薔薇の名前」をレンタルしました。

視聴のテーマは「皮剥ぎ職人と修道院の関係」について考察することです。
以前に頂いた資料で、「そもそも屠殺場は修道院や教会の敷地の近くにあり、水辺に追いやられたのは一九世紀に入ってからである」との記述があり、今までに読んできた資料と矛盾するこの内容についてグリム講座の先生に質問したところ、資料の一つとしてこの映画を教えていただけました。

内容は、1327年北イタリアの修道院を舞台に殺人事件の謎を解く、ショーン・コネリー主演のサスペンスものです。
お話的には目の肥えた今見ると別段ひねりのないサスペンスでしたが、舞台や背景の描写の緻密さは特筆に値します。
(もちろん映画としては面白いほうに分類されますが、個人的にはやはり舞台装置や垣間見える当時の常識のほうに目が行ってました)

そんな舞台装置ですが、山の上の修道院で周囲には乞食同然の農民の集落がある状況で、修道院の中に屠殺場があるという風景は確かに珍しいものです。
本来、屠殺業は皮剥ぎ職人と呼ばれ賤民視されており、水の近くに追いやられていたはずです。
少なくとも水車小屋より上流にあったとは到底考えられません。なぜなら、水車小屋の上流に屠殺場があると、血が流れ込み真っ赤に染まった水を水車が巻き上げるという、凄まじい光景になってしまうからです。
パン(当時としては最も神聖な食物の一つです)を作る小麦粉を挽く水車が血に染まっている光景など、絶対にあり得ないと言っても過言ではないでしょう。
一例をあげると、中世ヨーロッパの都市の生活(F・ギース/J・ギース著)を読むと1250年トロワの風景にて、次のような記述があります。

――引用ここから――
肉屋と皮なめし屋は一一世紀に増え、その結果、都市に典型的な問題が生じていた。ヴィエンヌ川の川底がごみであふれたのである。シャンパーニュ伯アンリ一世はセーヌ川上流から川底をさらわせ、ヴィエンヌに流れ込む流量を増やしてごみを流す作戦をとった。それでも、肉屋と皮なめし職人の住んでいる地域は市街地の中で最悪だった。
――引用ここまで――

ここで言う肉屋とは、別のページでは「肉屋街では、店で動物を殺すため」とあるため、イコール皮剥ぎ職人と考えて良いと思われます。
以上を踏まえると、修道院の内部に皮剥ぎ職人がいる風景というのは、いささか違和感を禁じえません。
また、この修道院は山の上で、水や川はまったく描写されていなかったので、おそらく粉挽きは水力ではなく人力だったのでしょう。
しかし、そうでなくとも、周囲に農民がいくらでも住んでいるのですから、皮剥ぎ職人はその近辺に追いやられるのが筋だと思われます。
しかし、ここでは修道院が一つの都市のように強固な壁で隔絶され、周囲の農民には近づくことのできない空間が作られており、インフラは全てその中に収まっているように見えました。

この辺りが実際にどうだったのかは、なにしろ当時の資料が少ないため、「わからない」としか言い様がありませんが、想像によって辻褄合わせを試みることはできます。
いわゆるバン領主制度に見られるバナリテ(使用強制権)などの「強力な権利を行使する者」が教会に近い立場にいる(=教会の支配力が強い)地域では生活必需職(粉挽きや皮剥ぎ職人も含む)を教会や修道院が完全に囲い込み、そうでない(=教会の支配を脱している)地域では、居住区から離れた水際へと追いやられていたのではないでしょうか。
例えば、ハーメルンの北西に位置するミンデン市などは、一三世紀までは司教区として教会の一大勢力圏でしたが、一四世紀に入ると教会の支配力は衰え、市参事会が代わりに力を得て行きます。
こういった変遷の中で、皮剥ぎ職人や粉挽きなどの「賤民視されつつも特権を持っていた職業」がどのように変化していったかを知ることが出来れば、大きなヒントになるように思います。(リューネブルク写本を読んでみたいところです)

先にも言った通り、映画の舞台となる修道院は山の上なので川や水がほとんどなく、屠殺の際に出た血液を瓶に貯め込んでいましたが、あれはいったいどのように処分されたのだろうかが気になります。
同じく映画の中では食べかすなどのごみを裏口から投棄して、そこに貧民が群がる描写がありましたが、同じように貧民のいるところに容赦なく流していたのではないでしょうか。
強力な権利を壁の中に囲い込む教会と、その周辺に群がる貧民という大局的な構図が、とても印象的でした。
また、神学論議を口実に財産の没収をもくろむ教皇庁と、それに抵抗する修道院など、当時の力関係なども映画を通して見えてくるようで、色々な面で楽しめる映画でした。
ちょいと私事がゴタついて滞ってます。
今回、文章もあまりうまくまとめてないのですが、記憶が薄れてしまう前にアップだけしときます。
そのうち読みやすく整理したいと思います。

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講義6回目、今回で一応終了です。
……と思ったら、後期が9月から始まるようですね。
まだ楽しみが続きそうです。

森に関するお話。
現在のドイツの森林面積は29.3%ほど、その大半は針葉樹林だそうです。
しかし童話などに出てくる物語のイメージでは、ぐにゃぐにゃと曲がりくねった、いわゆる針葉樹ではない広葉樹が多い気がします。
また次のような「ドイツ人の好む三大樹木」というものがあるそうで、オークはその筆頭だそうです。
①オーク(ブナ科、ミズナラ、勇気、健康、豊作、などの象徴、雷神の木)
②菩提樹(セイヨウボダイジュ、東洋の菩提樹とは別物)
③もみの木(ドイツトウヒ)
では、これらの広葉樹はどこにいったのでしょうか?
どうやら、森林伐採をやりすぎた結果、森林面積が最盛期の1/3にまで減ってしまったそうで、あとから植林したものが針葉樹だということです。

タキトゥス(西暦100年頃)のゲルマニアによれば、ゲルマンの地を旅した時の様子に「60日間歩いても森が続く」と言う表現があるそうです。
1日10km歩いたとしても、600km以上の森林があるわけで、古代ドイツが如何に森の国であったかが窺い知れます。
森林伐採は中世時代から近代にかけて継続的に行われていたようで、その主な用途は燃料でした。
泥炭などがまだ使われていなかった時代は、薪はほとんど唯一のエネルギー源だったようです。
また、中世時代には森はもちろん未知の世界でしたが、豚の放牧地として使われていたようです。豚の餌としてドングリなどの木の実を食べさせていたわけです。

グリム童話においても、森は非常に頻繁に物語の舞台となっています。
有名なヘンゼルとグレーテルも飢饉で家を追われた兄妹が森の中で魔女の家に迷い込み、魔女を撃退して無事に家に帰る話です。
またハリネズミのハンスも呪いによってハリネズミのような外見で生まれたハンスが家を追われ、森の中で豚を増やして街に戻り、お姫様と結婚する話です。
赤ずきんも森の中が舞台で、ここでは「おばあさんが森の中で一人で住んでいる=姥捨て森?」のような背景が見受けられ、当時の森と人間との関わりかたを推測できます。

グリム・ドイツ伝説集でも森の話は非常に多く、特に、「殺されるべき運命の子供が森で生き延びて、成長して復権する」という話が目立ちます。
これらから、森の中には何か人知の及ばぬ、あるいは神聖な力があると考えられていたことが推測されます。

ところで、先ほどのヘンゼルとグレーテルですが、「ヘンゼル(Hansel)」や「グレーテル(Gretel)」の最後の二文字「el」は日本語で言うところの「~ちゃん」に相当するそうです。つまりヘンゼルとは「ハンスちゃん」と言う意味です。
これを踏まえて「ヘンゼルとグレーテル」および「ハリネズミのハンス」を見ると、
①家を追われたハンスちゃんが
②森に行き、
③森の中で財産(魔女の宝、あるいは増やした豚)を得て、
④街に戻る
と言う構造が一致していることが分かります。
もしかしたら、この二つの話は原典が近いのかも知れません。
もっとも、「ハリネズミのハンス」は、ハンスの純粋なサクセスストーリーなのに対し、「ヘンゼルとグレーテル」は泣き虫だったグレーテルが魔女との戦いを通してガラリと成長しており、話の構成がかなり複雑です。「森の中における女性の変化」なる要素も見え隠れしているようです。
後者は別々の物語を組合わせたものなのかも知れません。

――――

中世ドイツの森に関しては、まだまだ分からないことが多く、調べる余地が大いに有りそうです。
タキトゥスの時代、ドイツの多くの地域が森林であったことを考えると、古代から中世にかけて、つまりキリスト教の席捲にあわせて凄まじい勢いで森林が伐採されたわけで、14世紀初頭はその真っ只中といったところです。
同時に、この頃に東欧への植民が盛んに行われていたことから、森林伐採は南西から始まり、東へ東へと進められたと考えることができます。

講義5回目です。

グリム童話「あめふらし」を中心に、世界中の「謎かけ姫」にまつわる話でした。
姫や王女などの高貴な女性が結婚の条件として無理難題をふっかけ、失敗した求婚者を殺してしまうというパターンの話の裏にはなにがあるのか。
そして、最初の挑戦者は大抵の場合は失敗し、最後にきた挑戦者が成功する(まあ、成功したから最後になるわけですが)という構図には、なにが隠れているのか。

ここには動物の本能の根源である、卵子に群がる精子の構図が見え隠れしているとのことです。最初に卵子に辿り着いた精子は卵子の殻を破るのみで、二番目以降に到着した精子が見事に受精を果たすことが出来るという、自然界のシビアさを物語の中に垣間見ることができるそうで、言われてみれば確かに納得です。

更に考察を進めるならば、姫や王女という強者としての立場、結婚を拒否する姿勢=結婚したら自由がなくなる=結婚したら不自由人(=奴隷?)になると言う構図も気になります。
また、「謎かけ姫」という存在の神秘性と、それを打ち破り征服する男性という構図を考えると、(結婚前の)男性視点で見た「女性の神秘性」と、結婚(征服)した後の立場の逆転や神秘性の消失なども、ここに見ることができるように思います。

――――

少々話は飛びますが、以前のエントリでエーフェルシュタイン家の拠点のひとつとしてポレの町を紹介しましたが、ここはシンデレラの舞台としても知られる街です。
しかし、シンデレラは赤ずきんと同じくフランスのシャルル・ペローの物語を再構成したものなので、ポレが舞台であるはずがない、ゆえに「ははーん、町興しを目的とした嘘だな?」と思っていたのですが、新事実が浮上して来ました。

今回の講義の後半で紹介されたDVD「ジム・ヘンソンのストーリーテラー」にてドイツの民話として「運命の指輪」という物語があるのですが、これがものの見事にシンデレラに酷似しているわけです。
シンデレラと異なる点は、

①運命の指輪によって父親と結婚させられそうになり、逃げ出したお姫様が主人公
②魔法使いのおばあさんと、それによって生み出される小道具が存在しない
③ガラスの靴ではなく金の靴

あとは花嫁衣裳などの小道具に差が見えますが、おおむねシンデレラと同じです。
更に付け加えるなら、「魔法使いのおばあさんが登場しないので12時に魔法が解けるわけではないにも関わらず、どうして逃げ帰るのか」の説明がないことなど、物語の細部がシンデレラに比べて荒削りで、「いかにも原型」と言った印象がありました。

「ドイツのどこか」にこういった民話が伝わっているのだとしたら、ポレの街に関する話は大きく変わってきます。
「元々ドイツにあった民話がフランスに輸出され、シャルル・ペローによって物語としての完成度を高められ、ドイツに逆輸入された」と言う理屈が成り立つわけで、この「ドイツのどこか」がポレ市であった可能性は充分にあります。
ちなみに、こういった「物語の逆輸入現象」はいたるところで見られます。アーサー王伝説のエクスカリバーもその典型例です。

いずれにせよ、「シャルル・ペローが元ネタだったから、ドイツでの言い伝えは嘘」と考えるのは早計のようですね。
なかなか奥が深いものです。
4回目の講義でした。

グリム童話に登場する各要素についての話でした。
動物の場合、「なぜ、その動物なのか?」を掘り進めて考えることで、その童話(の元になった民話)がどのような背景だったのかが見えてくると言う内容です。

・かえる:
伝説や民話ではしばしば出産や子供にまつわる存在として登場する。
→卵をいっぱい生むから

・あめふらし:
ドイツは北の一部を覗いてほぼ内陸国なのに、何故あめふらし?
あめふらしをドイツ語でMeerhaeschen(海うさぎ)と表現することがあるそうです。
そしてドイツのある地方の方言では「小さい」の意味としてMeerと言うそうです。
もしもその地方の民話が元になっていたとしたら、Meerhaeschenは「小さなうさぎ=モルモット」と解釈することが可能で、実はこの物語は「あめふらし」ではなく「モルモット」だったのかも知れないそうです。
確かに、あめふらしを王女様が気に入ったり、王女様の髪の毛に忍び込んだりと、「えー? あめふらしが?」と思ってしまうような場面が目立ちますが、これがあめふらしではなくモルモットだとすると、非常にスムーズな物語になるような気がします。
真相はどうなのでしょうか。

・猫:
猫は童話に登場すると悪戯者でずる賢い反面、人間に対しては忠義深く、長靴をはいた猫のように若者の出世を助けてくれるような面があります。
エジプトあたりでは猫の神様が祀られてたり、この辺りのミステリアスな雰囲気も手伝っているようです。(日本にも招き猫がいますね)
また、魔女狩りで猫も随分殺されたようですが、何故猫が魔女の手下にされたのかははっきりとした理由は判っていないようです。
ただ、イタリアやブルガリアあたりでは「猫は8回蘇る」という迷信もあり(恐らく似た猫が多い地域なのではないでしょうか。だとしたら「死んだはずの猫が歩いてる」と思われた事は容易に想像できます)、この辺りから「悪魔の使い」に変貌した可能性もありそうですね。

また、グリム童話のタイトルを眺めると、数字の入ったタイトルが数多くあります。

・狼と七匹の子山羊
・十二人兄弟
・森の中の三人一寸法師(これは岩波書店版が出典のようですが、こびとと解釈するのが正しいと思います)
・糸くり三人女
・三枚の蛇の葉
・七羽のからす
・三色の言葉

他にも色々ありますが、圧倒的に三,七,十二が多く登場します。
三は昔から均整のとれた小さな数として扱われているため。
十二はキリストの弟子の数が縁起の良い数とされているそうです。
順当に考えれば、七は天地創造でしょうか。
いずれにせよ、これらの数字が読み手に与える心理的影響力は無視できるものではなく、グリム兄弟はこれらをかなり意識してグリム童話を編集していたようです。
 赤ずきんで検索すると、研究・考察しているサイトが山のように見つかります。
 そんな中で、昨日今日この分野に脚を突っ込んだばかりの私が物を言うのも恥ずかしい限りですが、ひとつ私もグリムの赤ずきんについて考えてみたいと思います。
 
 こちらに明るい人の間では常識ですが、グリムの赤ずきんはフランスのシャルル・ペローが書いたペロー童話に収録されているものを再構成した物語です。
 よって、赤ずきんという物語に込められた「グリムの思惑」を考えるために、とりあえずしなければならないことは「引き算」です。
 
 「グリム赤ずきん - ペロー赤ずきん = ?」
 
 答えは、

①猟師が登場する
②赤ずきんとおばあさんが助かる
③狼の腹に石を詰めて殺す

 もう一つの話のほうでは、そもそも大筋からして異なっていますが、

④狼を水の入った桶に落として溺死させる

 やや恣意的ですが(笑)、こんなところでしょうか。
 
 私がこの歳になって、改めて赤ずきんを読んで、最初に「おや?」と思ったのは、①です。これは最大の疑問といっても良いでしょう。
 まず、鉄砲の存在。
 ここまで完全にファンタジーの世界で物語は進み、少なくとも私の頭の中では中世世界が広がっていました。しかし、猟師が鉄砲を持ちだした瞬間に、その前提がガラリと崩れます。
 話の流れとしては、むしろ弓矢、せめて弩を使ったほうが遥かに自然な気がしますが、グリムは、弓矢ではなく鉄砲という近代の道具を選びました。
 
 更に、猟師は眠っている狼の頬に鉄砲で狙いを付けながらも思い直し、あえて殺さずに、生かしたまま赤ずきんを助け出し、そして狼の腹に石を詰めるという、実にまだるっこしい殺し方をしています。
 何故グリムは「鉄砲で撃ち殺す」事を避けて、あえて「石で殺す」事を選んだのでしょうか?
 
 これは七匹の子ヤギでも同じ描写があり、そこからこの部分を引っ張ってきたようです。
 ちなみに、七匹の子ヤギにも赤ずきんに共通する興味深い小道具が登場しています。
 それは、柱時計です。
 脱進機を使った、いわゆるアナログ時計の機構そのものは一四世紀には登場していますが、しかし、やはりファンタジー世界に突然現れた「時計」と言う近代の道具に違和感を感じるのは自然だと思います。
 そして、最後の子ヤギはまさに柱時計によって狼をやり過ごし、そして、母親とともに兄弟を助けだしたのち、狼の腹に石を詰め、泉で溺死させるわけです。
 
 単なる類型の童話だと言えばそれまでですが、何故、わざわざそのような展開にしたのかが気になります。
 どちらの話においても、「鉄砲/柱時計」と言う近代の道具によって脅威が排除され、「石(あるいは水)/石および水」によって狼を殺しています。
 いったい、近代の道具とは、そして石や水とは、何の象徴なのでしょうか。
 
 これは私の想像ですが、近代の道具はずばり「キリスト教」を象徴しているのではないかと思います。
 グリムが赤ずきんを何年頃と想定していたかは定かではありませんが(そもそも想定しないのがメルヘンの条件です)、少なくとも、中世世界においてキリスト教とは、まさしく「最新の科学」であり、「最先端の知識」でした。
 人間社会のみならず、街の外に広がる脅威に満ちた世界をも、全て「創造主による被造物」として一元化し、あらゆる理不尽な運命を「神の御業」として解釈し、古代世界から「未知」という要素を追放したのが、「中世世界におけるキリスト教」です。
 そして、赤ずきんも子ヤギも、鉄砲や柱時計という、まさしく「最先端の科学」によって狼の脅威を排除しています。
 
 次に、石と水について考えます。
 やはり赤ずきんを読んで「うん? 石と水?」と思い当たるものがあって、本を取り出しパラパラとめくって、見つけました。
 ハインリッヒ・ハイネの「流刑の神々・精霊物語」のうち、精霊物語の一節です。
 一部を引用します。
 
――引用ここから――
 古代ドイツの法律のなかにはしかしたくさんの禁令もあった。すなわち川と木と石の近くで礼拝をしてはならないという禁令。これはある種の神性がそのなかに宿るという異教的迷信からくる。
 (中略)
 この三者、石と木そして川はゲルマンの信仰の主要動機である。それによって信仰は石のなかに住む存在、つまりこびとと交流し、木のなかに住む存在、つまりエルフェと交流し、水のなかに住む存在、つまりニクセと交流する。
 (中略)
 元素ごとのやりかたでは火に対して第四級の精霊、すなわちサラマンダーをあてることになる。
――引用ここまで――
 
 これを踏まえて赤ずきんや七匹の子ヤギを読むと、「石や水で殺す」ことが、途端にとても重い意味を帯びてきます。
 しかも、「鉄砲・柱時計=最先端の科学」によって狼の脅威を取り除いた上で、です。
 グリムは最先端の科学を持ち出しながらも、狼という悪魔に裁きを下すのは、あくまでも石や水を用いているのです。
 更に、赤ずきんの物語全体が「森の中」で展開すると言ったら、ややこじつけになるでしょうか。
 しかし、もしもここに三種類のゲルマン信仰の対象が隠れているとしたら、もうひとつ、大きな要素が現われるのです。
 森(木)と石と水は登場しましたが、もうひとつ、火はどこにあるのでしょうか?
 ここで、初めて「赤」ずきんに意味が出てきます。
 グリムがペロー童話から再構成した際に、ペローがかぶせた赤い頭巾を火の色に見立てたのではないでしょうか。
 となれば、赤ずきんの物語は、

①最先端の科学により悪魔の脅威を取り除き
②石と水によって悪に裁きを下し
③それらの物語は森の中で進行し
④物語の中心に「赤」ずきんが存在する
 
 このように読み取ることが出来ます。
 結論を言うと、グリムがこの話を再構成する時に考えていたのは、「キリスト教を立てつつも、古代ゲルマンの民間信仰を尊重する」と言う、異なる信仰の両立だったのではないかと想像できるわけです。
 
 こうなるとグリムの宗教観について気になってくるところですが、前回の講義で質問したところ、グリム兄弟は敬虔なプロテスタント派だったそうです。
 カトリック派だとしたら、この考察のような考え方は絶対にしない様な気がしますが、プロテスタント派はどうなのでしょうか。
 ちなみに、グリム童話のKHM200番以降に宗教色の強い物語が数多く登場すると教えていただいたので、いずれはそちらも読んで、グリムの宗教観について考えたいところです。
3回目です。
今日は童話に登場する動物に関する話でした。
狐:ずる賢い
狼:怖い
クマ:強いけど間抜け
うさぎ:か弱い
鼠:弱い、憶病
猫:強くはないが、すばしこく、ずる賢くもある

狼がさんざん悪者として登場するが、狼の被害は(他の害獣に比べて)それほど多くはなく、かなり濡れ衣的な扱いだった……というのが大きな内容でした。

確かに、実際の被害に比例して扱いが変化するのなら、ペストをばら撒いて欧州の2/3を壊滅させた鼠に至っては、死神や悪魔そのものとして扱われなければ辻褄があわないことになります。
では、なぜ狼だけがここまで悪者として登場するのでしょうか。
講義では人狼が引き合いに出されましたが、阿部謹也によれば実際の人狼(人間狼)とは、街を追放された犯罪者だったとのことです。
追放された犯罪者が街の付近を徘徊する様子が、狼のイメージと被ったと言うのは、実にありそうな話に思えます。
では、しかし、狼は果たして「人狼(=犯罪者)と並べられるような頻度」で街の近くを徘徊していたのでしょうか?
これを考えると、NOのような気がしてなりません。何故なら、そこまで人間の近くに狼が頻出していたのであれば、やはり狼に寄る被害がそれなりに多かったと思われるからです。
統計的に狼による被害が少なかったとなれば、「狼に似ていて、かつ人間の近くに居るもの」がその正体ではないでしょうか?
すばり、野良犬がそのシルエットや遠吠えなどから「狼だ」と誤解されていたと言うのが真相ではないかと想像します。

少し話がずれますが、ヨーロッパの各地に伝わる狼男伝説に関して。
狼男の特徴のうち「正気を失い凶暴化する」、「狼男に噛まれた者は狼男になる(=唾液や血液で感染する)」、「水を渡れない(=水を怖がる)」この決定的な症状から、私は(怪物としての)狼男とは、ほぼ間違いなく狂犬病の患者だと考えております。
これが正しいと仮定して、前述した話「狼だと思われていたのは、実はほとんど野良犬だったのでは?説」に絡めると……

野良犬が噛み付く→狂犬病発症→「狼男だ!近くに狼がいるぞ!」→ワオーン→「狼だ!」

「野良犬の近くには狼男も出没しやすい」と言う構図が完成し、一本のラインが見えてくるような気がします。
これに加え、犯罪者に対する恐怖感などが手伝い、狼はどんどん悪役へと変貌していったのではないでしょうか。
「当時のヨーロッパに狼に似た犬種(それも原種に近いプリミティブ・ドッグ)が存在したか」と言う点が気になるところです。
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プロフィール
HN:
凪茶(ニャギ茶)
性別:
男性
職業:
くたばり損ないの猫
趣味:
ドイツとイギリス
自己紹介:
ドイツ・イギリスを中心に中世ヨーロッパの生活習慣、民俗学などを勉強しています。
最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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