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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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半年に渡って続いたグリム講座もついに終わりました。
 今回、中世ドイツ民俗学の勉強の一環として参加した中央大学の公開講座でしたが、色々な点で収穫を得ることができました。
 また、講師の天沼先生にいただいた参考資料の数々は考察を深めるのに非常に役に立ち、これなくして勉強の継続は難しかったでしょう。
 ここで御礼申し上げた上で、グリムに関して私が立てた推論を述べさせていただき、グリム講座に関するエントリを一旦終わらせようと思います。
 


 さて、グリムです。
 何度も繰り返してきたことですが、総合的に見て、グリム童話には明らかに不自然な描写やアイテムが頻繁に登場します。
 そして、その「明らかに不自然な描写・アイテム」を見ると、ひとつの共通点があると私は思うのです。
 完全に精査したわけではないので断定的なことは言えませんが、それは私が見た印象では「キリスト教との距離感」として現れています。
 例えば、グリムはキリストに関連する数字「7」や「12」、他にも「神さまのお恵みによって」などの描写を好んで使い、それは作中にいたるところに見られますが、しかし、いざ「不自然な描写・アイテム」が出てくるとなると、途端にキリスト教の影が消え失せるのです。
 ねずの木の話でも、「鬱と鬱からの回復」に関して、キリスト教はまったく関係ありませんし、もしもここにキリスト教を意識するのであれば、「神様のお恵みによって元気が出た」と言ったほうが、より自然だと思います。
 赤ずきん、七匹の子ヤギにいたっては、既に述べた通り「銃や柱時計=近代文明(=キリスト教を暗示?詳細は赤ずきんのエントリを参照)」によって狼の脅威を排除したにもかかわらず、しかし「水と石」によって狼に裁きを下しています。これは、中世におけるキリスト教の立場で見たら、キリスト教どころか、むしろ異端信仰に近い行いと言えます。
 
 講義の中ではグリムの属していたロマン派について言及されました。
 ロマン派、日本語で短くまとめるのは難しいですが、講義に則るのであれば「懐古的理想主義」とでも言いましょうか、要するにナポレオンに蹂躙されたドイツを立て直す中で、古き良きゲルマン文化を保存しようという動きがあり、グリム童話はその一環として書かれたのです。
 その観点から見ても、「水や石」の中に古代ゲルマン信仰が隠されていることは疑いようのないところで、むしろこうなると「7」や「12」、「神さまのお恵み」などのキリスト教的要素が混入するほうが不自然な気さえしてきます。
 しかし、グリムはキリスト教を強く意識してグリム童話を書きました。特に、私がこだわるディティール部分ではなく、アウトラインにおいて非常に多くキリスト教を連想させる要素が見受けられます。
 率直に言って、「古き良きゲルマン文化を保存する」のであれば、キリスト教の描写は省いたほうが良いでのはないかとさえ感じます。
 では、なぜグリムはこのような異文化混合の童話を書いたのでしょうか。
 
 ここでひとつ別の資料を持ち出させていただきますが、グリムが活動していた少し後、ドイツでは面白い議論が巻き起こっていたそうです。
 菊池良生氏の「神聖ローマ帝国」より抜粋します。
 フリードリッヒ一世および二世の治世が終わり、シュタウフェン朝が終焉する前後のくだりです。
 
――引用ここから――
 そしてドイツには「聖界諸侯との協約」、「諸侯の利益のための協定」だけが残った。そのためドイツは唯一の最高権力者である皇帝により治められる帝国ではなく、諸侯が治める数多の領邦国家が構成する連邦国家と化したのである。
 これを見て十九世紀後半、ドイツ史学会で「皇帝政策論争」が巻き起こる。ドイツ分裂の遠因は皇帝のイタリア政策にありと批判する史家と、それを弁護する史家との間の論争である。
――引用ここまで――
 
 ここでいう「皇帝」とはフリードリッヒ一世および二世(あるいはそれ以前の皇帝も含むかも知れません)のことです。
 では、フリードリッヒ一世および二世がなにをしたのかと言うと、簡単に言うと、事実上の皇帝任命権を持つローマ教皇に戦いを挑み、その権限を剥奪しようとしました。
 要するに、ドイツ(神聖ローマ帝国)が分裂したのはフリードリッヒ一世および二世がローマ教皇に喧嘩を売りまくったのが原因であると。つまり、「皇帝がゲルマン統治で満足して、教会にちょっかい出さなければ、ドイツは分裂しなかった」という論争です。
 言い方を変えると、「ゲルマン王とキリスト教が喧嘩しなければ、ドイツはもっと速く統一できてたのでは。ナポレオンも追い返せたのでは」と読み取ることができます。
(もっとも、私はこの論には否定的です。なぜなら、当時の神聖ローマ帝国ではあらゆる諸侯が「誰かひとりが強くなりすぎる」状況を極端に恐れ、出る杭を総出で打ちまくっていたからです。出る杭(皇帝)を打つために昨日の敵(ローマ教皇)と手を結ぶのが当たり前で、皇帝がいたずらにローマ教皇との戦いを長引かせたのには、このような諸侯の思惑や暗躍が原因であったのは事実です。強いて言うなら、ドイツ分裂の遠因は、当時の諸侯全員が「俺以外が強くなりすぎるのは気に入らねえ」と思って足を引っ張り合っていたことだと思います)
 
 グリムに話を戻します。
 この論争が起きた頃にはグリム兄弟は晩年を迎えているわけですが(あるいはこの論争を見ることなくこの世を去ったかも知れません)、十九世紀後半に起きたというこの論争の根底にあるものと、グリム童話とが、ひとつの糸で結ばれるのがわかると思います。
 そろそろ結論を言います。
 ナポレオンが冬将軍に敗れて引き上げたあと、蹂躙され荒廃したドイツの土地で、グリムはなにを思ったでしょうか。童話を書く際に、子供になにを伝えたいと願ったのでしょうか。結果から見ると、やはり「ゲルマン文化とキリスト教の協調」だったと思います。
 「子供に読ませる読み物」として依頼を受けた際に、赤ずきんだけでなく、ほとんどすべての物語において「二度とゲルマン文化とキリスト教を対立させるまい」という意図が篭っていたのではないかと推測します。
 ゲルマン文化保存運動の中心ともいえるロマン派に属していながら、アウトラインにはキリスト教の影響を色濃く残している点。
 本人たちもプロテスタント派であり、キリスト教の影響を強く滲ませていながらも、決定的な部分ではゲルマン文化が顔を覗かせる点。
 当時のドイツでなにがあったのか、それよりも更に大昔のドイツでなにがあったのかを見ていくと、これらの矛盾は矛盾ではなく、融合と協調の産物であることが浮かび上がってくるのです。
 そして、まさにグリムを筆頭とするロマン派の論者たちのこのような主張が、後の皇帝政策論争へと発展していったのではないかと推測します。
 
 私としては、このあたりに「グリム童話200年の秘密」が眠っているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
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 マックス・リューティに関する講義が続いたので、まとめていきます。
 昔話を解釈する際に、登場するアイテムや要素のひとつひとつに拘ると、大きな誤りに陥ることがあるそうです。
 例えば、有名なところではユングによる赤ずきんの解釈ですが、ユングは赤ずきんのかぶっていた頭巾の「赤」を深層心理的な象徴として解釈しています。
 しかし御存知の通り、赤ずきんに赤いずきんをかぶせたのはフランスのペローであり、原型となったであろう元々の昔話には「赤」などと言う色は登場しないことを、後年指摘されています。
 まさしく、細部にこだわった結果、このような誤りに陥ってしまうわけで、この意味でマックス・リューティの主張は正しいわけです。
 講義の内容は、概ね以上のようなものでした。

 これは、「細部にこそ注目する」という私の姿勢とは180度とまではいかないものの、かなり異なります。
 そもそもの主張が「この昔話はなにを伝えようとしていたのか?」という疑問からはじまっているところに、ひとつの齟齬があるのではと感じるわけです。
 私がグリムに関してこれまでに書いてきたことで、特に気をつけていたことですが、私はグリム童話について考察するときには必ず「グリムの意図」というものを重要視しています。
 というのも、ぶっちゃけた話になりますが、正直なところ、歴史的・民族学的な視点ではグリム童話はグリムによる改変が多すぎて参考にすることができないからです。実際、ドイツ民俗学に関しては同じグリムの「ドイツ伝説集」のほうが、より原型に近い物語がたくさん収録されており、「ああ、これがグリム童話のあの話に混ざったんだな」と見受けられる話も多数見つけることができます。
 (誤解なきよう加えておきますが、ではグリム童話には資料的価値はないのかというと、間違ってもそんなことはありません。それどころか、ドイツを中心とした中世ヨーロッパにおける価値観、死生観、常識など、資料の宝庫と言えます)
 よって私は、基本的にグリム童話とは「昔語を楽しむための童話」と捉えており、「グリム童話を通して原型となった物語の意図を直接読み取ること」はしておりません。そこから読み取れるのは「昔話の意図」ではなく、実は「グリムの意図」であることが、往々にしてあるのです。
 では逆に、これを突き詰めたら? という考えに基づいたものが私の読み方です。

 先ほど「私の姿勢とは180度とまではいかないものの」と書いたのは、別にマックス・リューティに敬意を表してのことではなく、いわゆる「細部にこだわったがゆえの矛盾」は、「昔話の意図」として解釈すると失敗に陥るものの、「グリムの意図」として読み取れば矛盾なく繋がるのではないかと考えるからです。
 例えば件のユングの言う赤ずきんの解釈「赤は深層心理を表している」という話ですが、これを「(昔話としての)赤ずきんの物語はなにを伝えようとしているのか」と読み取ると、ペローの時点で矛盾が発生します。
 現代と違い情報の少ない時代のことですから、実際のところ、赤ずきんに「赤」を付け加えたのがペローであることを、ユングは知らなかったのでしょう。しかしこの矛盾を笑うことはできません。
 なぜなら、この問いを「グリムは赤ずきんの物語を通してなにを伝えようとしているのか」と置き換えると、(この説におけるユングの意図はさておき)ユングの言う深層心理説でも矛盾なく説明できるからです。
 この意味で、グリムが「ペローのかぶせた赤いずきん」に深層心理におけるなにかしらの象徴を見出していた可能性を否定することはできません。
 そもそもの姿勢が「昔話の意図」を読み取ることにあるのか、「グリムの意図」を読み取ることにあるのか、それによって物語の解釈の仕方は変わってくるのではないかというのが、マックス・リューティに関する私の私見です。

 以前にも書いたことですが、「普段はディティールを書かないグリムが、あえて書いたディティールの部分」には、グリムが「これだけは外せない」と考えていた痕跡を見出すことができると思うのです。
 「原型らしき昔語」から「グリム童話」に変化する際に、グリムが原型に対し「どのように手を加えたか」のように、つまり以前の赤ずきんに関するエントリで書いた「引き算」の法則をあてはめて見ると、その「手を加えた部分」あるいは「手を加えなかった部分」にこそ、なにかしらのグリムの意図が垣間見えてくるわけです。
 10月19日のエントリ「ねずの木(柏槇)の話」において、ねずの木の薬効について言及しましたが、グリム童話にはこのような「露骨に不自然な描写」が非常に多く見て取れます。
 このような細部に注目してこそ、「グリムの意図」が、そしてグリムが子供たちに伝えねばと考えたであろう「昔話の意図」が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 そしてそのような「うがった」見方をすることによって、はじめて発見できるものもあるわけで、このあたりにもグリム童話の楽み方が隠れていると私は考えるわけです。



 さて、半年ほどに及んだグリム講座でしたが、次の木曜日で一応の最終回となります。
 来年は「アンデルセン童話およびグリム童話」を題材に、新たな講義をはじめるそうです。実のところ、私は昔話よりも創作が中心のアンデルセン童話にはそれほどの興味はないのですが、参加しようかするまいかかなり悩み中です。
 一度さらりと読んでみてから考えてみようと思います。
 今日の講義は、マックス・リューティというグリムに関する研究をした学者についての考察でした。
 マックス・リューティはその代表著書である「物語の解釈」によって一時期はグリム解釈についての第一人者だったそうですが、現在では解釈の強引さや若干の矛盾などの指摘も多くされており、グリム解釈の材料として講義では扱われました。
 マックス・リューティは「いばら姫」を題材に次のような考察をしています。
 
――抜粋ここから――
この話の核心は何か? この話には何が述べられているのか? ヤーコップとヴィルヘルム(グリム兄弟)は、この昔話を古い神話の欠片と見なし、人生と世界に対する太古の直感的な見方がかわいらしい姿で残ったもの、と考えた。
(中略)
この昔話は死と復活を物語っているのだ。
(中略)
人間を取り巻く自然界の出来事ばかりでなく、人間の心の中の出来事もあらわされている。いばら姫は十五歳のときに魔法にかかるが、十五歳というのは子供から乙女への過渡期にあたる。大きな発展の境目に立ったり、人生のある段階から別の段階へ移っていくときには、人は決まって危険にさらされるような気がする。
――抜粋ここまで――
 
 情緒的な文章が多いので大幅に省略していますが、だいたいこのような論調です。
 これを否定するほど私も熟読を重ねたわけではありませんが、ある程度は違う見方をすることはできます。
 上記の抜粋を読んで、私がまず最初に想像したこと。かなり多くの人が同じものを想像したのではないかと思いますが、それは四コマ漫画です。
 マックス・リューティの主張とはかいつまんで言えば「いばら姫とは起承転結をもって自然の摂理を訴えている物語である」と読み取れるのです。
 それは一つの見方として正しいですが、しかし大きな弱点を持ちます。この理屈ならば「起承転結」をもって構成されるすべての物語について同じことが言えるのです。

 マックス・リューティの活動していた頃に比べ、私達が生活する現代社会は、それこそ物語に溢れ、小説にも漫画にも事欠きません。
 それらを作成する過程で「起承転結」なる構成は完全にメソッド化され、言ってみれば「物語を作る際の常識中の常識」と化しています。私も子供の頃、「四コマ漫画の書き方」などの本で読んだ記憶があります。
 このような状況の中で現代の多くの人がマックス・リューティの著書だけでは物足りなく感じるのは、ある意味当然なのかも知れません。
 そもそも、マックス・リューティの時代にはメソッドどころか「起承転結」なる言葉自体が存在していなかったのですから、グリム童話の中にこの構造を見出したマックス・リューティの眼識は、当時としては極めて先進的だったと評価すべきでしょう。
 

 
 私は、グリムを解釈する際には、アウトラインや全体の構成ではなく、あえてディティールの部分に徹底的に注目したいと考えています。
 マックス・リューティの著書の中に「昔話に出てくる人物は、個人として描かれてはいない。昔話には個々人の運命は描かれていない」とあります。
 その通りです。だからこそ、基本的に「ディティールを書かない」はずのグリムが「あえて書いたディティールの部分」には、何かしらの意図が隠されているのではないかと思うわけです。
 
 例えば、いばら姫に死の宣告をした魔女は「姫は十五の歳に紡錘(つむ)に刺されて死ぬがよい」と叫びます。
 ものすごく素朴な疑問ですが、なぜ物語のこのタイミングで突然、「紡錘」なるアイテムが登場したのでしょうか?
 ここまでの「ディティールを書かない」グリムであれば、「姫は十五の歳に死ぬがよい」と書いたほうが自然です。しかし、あえて「紡錘」というアイテムを、それも「唐突に」登場させました。
 一応、お話の流れとしては「王様が国中の紡錘を燃やしてしまった結果、紡錘を知らないお姫様はかえって興味をそそられて紡錘に触れてしまう」という展開へと繋がります。
 しかし、この展開にするためならば、紡錘である必要はありません。白雪姫のように櫛でも林檎でも、なんでも良いはずです。(むしろ、話の流れとしては林檎のような食べ物のほうが「お姫様が興味をそそられる」ような展開としては自然に感じます)
 グリム童話を素朴な目線で読んでいくと「赤ずきんにおける鉄砲」「七匹の子ヤギにおける柱時計」「ねずの木(柏槇)の話における鬱」など、「うん? なんでまた突然?」「これって昔話じゃなかったの?」と思うような表現にものすごく頻繁に出くわします。
 このようなところを、「あえて」深く突っ込むことで、思わぬ背景や、思わぬ意図が見えてくるように思えるわけです。
 
 ちなみに先ほどの答えを言うと、「紡錘」とは日本語訳された単語で、原文では「糸巻き(スピンドル)」のような言葉で表現されており、「糸車」を指しているとも解釈できるそうです。
 いずれにせよ、「糸紡ぎ」であることには間違いなく、そしてドイツの民話では糸紡ぎといえば「魔法」や「運命を司る道具」として扱われることが多いのです。(北欧神話の影響でしょう)
 グリム童話の中でも特に長編においては、複数の民話をミックスしたものが多くみられ、いばら姫もその例に漏れません。
 この紡錘という「運命を司る道具」をもって、まさしく姫の運命を予言した魔女は、北欧神話における「運命を司る三人の魔女(彼女らも糸紡ぎを使って運命を操ります)」か、それに類するものが原型になっていることは間違い無いと思われます。
 北欧神話を聞いて育った子どもたちならば、「紡錘」というキーワードによって、「絶対に避けられない運命的なもの」を感じたことでしょう。
 つまり、ここにおける「紡錘」とは、「魔女の力がいかに強いかを示すための小道具」であったと解釈することができます。
 
 では、なぜ魔女の力の強さを表現する際に「北欧神話に連なる紡錘というアイテム」を登場させたのかということですが……。
 ここまで引っ張っておいて申し訳ないのですが、私は一つグリムについて大きな推論を立てています。それを一連のグリム講座受講の総集編としてまとめたいと思っているので、その中で書いて行きたいと思います。
講義5回目です。

グリム童話「あめふらし」を中心に、世界中の「謎かけ姫」にまつわる話でした。
姫や王女などの高貴な女性が結婚の条件として無理難題をふっかけ、失敗した求婚者を殺してしまうというパターンの話の裏にはなにがあるのか。
そして、最初の挑戦者は大抵の場合は失敗し、最後にきた挑戦者が成功する(まあ、成功したから最後になるわけですが)という構図には、なにが隠れているのか。

ここには動物の本能の根源である、卵子に群がる精子の構図が見え隠れしているとのことです。最初に卵子に辿り着いた精子は卵子の殻を破るのみで、二番目以降に到着した精子が見事に受精を果たすことが出来るという、自然界のシビアさを物語の中に垣間見ることができるそうで、言われてみれば確かに納得です。

更に考察を進めるならば、姫や王女という強者としての立場、結婚を拒否する姿勢=結婚したら自由がなくなる=結婚したら不自由人(=奴隷?)になると言う構図も気になります。
また、「謎かけ姫」という存在の神秘性と、それを打ち破り征服する男性という構図を考えると、(結婚前の)男性視点で見た「女性の神秘性」と、結婚(征服)した後の立場の逆転や神秘性の消失なども、ここに見ることができるように思います。

――――

少々話は飛びますが、以前のエントリでエーフェルシュタイン家の拠点のひとつとしてポレの町を紹介しましたが、ここはシンデレラの舞台としても知られる街です。
しかし、シンデレラは赤ずきんと同じくフランスのシャルル・ペローの物語を再構成したものなので、ポレが舞台であるはずがない、ゆえに「ははーん、町興しを目的とした嘘だな?」と思っていたのですが、新事実が浮上して来ました。

今回の講義の後半で紹介されたDVD「ジム・ヘンソンのストーリーテラー」にてドイツの民話として「運命の指輪」という物語があるのですが、これがものの見事にシンデレラに酷似しているわけです。
シンデレラと異なる点は、

①運命の指輪によって父親と結婚させられそうになり、逃げ出したお姫様が主人公
②魔法使いのおばあさんと、それによって生み出される小道具が存在しない
③ガラスの靴ではなく金の靴

あとは花嫁衣裳などの小道具に差が見えますが、おおむねシンデレラと同じです。
更に付け加えるなら、「魔法使いのおばあさんが登場しないので12時に魔法が解けるわけではないにも関わらず、どうして逃げ帰るのか」の説明がないことなど、物語の細部がシンデレラに比べて荒削りで、「いかにも原型」と言った印象がありました。

「ドイツのどこか」にこういった民話が伝わっているのだとしたら、ポレの街に関する話は大きく変わってきます。
「元々ドイツにあった民話がフランスに輸出され、シャルル・ペローによって物語としての完成度を高められ、ドイツに逆輸入された」と言う理屈が成り立つわけで、この「ドイツのどこか」がポレ市であった可能性は充分にあります。
ちなみに、こういった「物語の逆輸入現象」はいたるところで見られます。アーサー王伝説のエクスカリバーもその典型例です。

いずれにせよ、「シャルル・ペローが元ネタだったから、ドイツでの言い伝えは嘘」と考えるのは早計のようですね。
なかなか奥が深いものです。
4回目の講義でした。

グリム童話に登場する各要素についての話でした。
動物の場合、「なぜ、その動物なのか?」を掘り進めて考えることで、その童話(の元になった民話)がどのような背景だったのかが見えてくると言う内容です。

・かえる:
伝説や民話ではしばしば出産や子供にまつわる存在として登場する。
→卵をいっぱい生むから

・あめふらし:
ドイツは北の一部を覗いてほぼ内陸国なのに、何故あめふらし?
あめふらしをドイツ語でMeerhaeschen(海うさぎ)と表現することがあるそうです。
そしてドイツのある地方の方言では「小さい」の意味としてMeerと言うそうです。
もしもその地方の民話が元になっていたとしたら、Meerhaeschenは「小さなうさぎ=モルモット」と解釈することが可能で、実はこの物語は「あめふらし」ではなく「モルモット」だったのかも知れないそうです。
確かに、あめふらしを王女様が気に入ったり、王女様の髪の毛に忍び込んだりと、「えー? あめふらしが?」と思ってしまうような場面が目立ちますが、これがあめふらしではなくモルモットだとすると、非常にスムーズな物語になるような気がします。
真相はどうなのでしょうか。

・猫:
猫は童話に登場すると悪戯者でずる賢い反面、人間に対しては忠義深く、長靴をはいた猫のように若者の出世を助けてくれるような面があります。
エジプトあたりでは猫の神様が祀られてたり、この辺りのミステリアスな雰囲気も手伝っているようです。(日本にも招き猫がいますね)
また、魔女狩りで猫も随分殺されたようですが、何故猫が魔女の手下にされたのかははっきりとした理由は判っていないようです。
ただ、イタリアやブルガリアあたりでは「猫は8回蘇る」という迷信もあり(恐らく似た猫が多い地域なのではないでしょうか。だとしたら「死んだはずの猫が歩いてる」と思われた事は容易に想像できます)、この辺りから「悪魔の使い」に変貌した可能性もありそうですね。

また、グリム童話のタイトルを眺めると、数字の入ったタイトルが数多くあります。

・狼と七匹の子山羊
・十二人兄弟
・森の中の三人一寸法師(これは岩波書店版が出典のようですが、こびとと解釈するのが正しいと思います)
・糸くり三人女
・三枚の蛇の葉
・七羽のからす
・三色の言葉

他にも色々ありますが、圧倒的に三,七,十二が多く登場します。
三は昔から均整のとれた小さな数として扱われているため。
十二はキリストの弟子の数が縁起の良い数とされているそうです。
順当に考えれば、七は天地創造でしょうか。
いずれにせよ、これらの数字が読み手に与える心理的影響力は無視できるものではなく、グリム兄弟はこれらをかなり意識してグリム童話を編集していたようです。
3回目です。
今日は童話に登場する動物に関する話でした。
狐:ずる賢い
狼:怖い
クマ:強いけど間抜け
うさぎ:か弱い
鼠:弱い、憶病
猫:強くはないが、すばしこく、ずる賢くもある

狼がさんざん悪者として登場するが、狼の被害は(他の害獣に比べて)それほど多くはなく、かなり濡れ衣的な扱いだった……というのが大きな内容でした。

確かに、実際の被害に比例して扱いが変化するのなら、ペストをばら撒いて欧州の2/3を壊滅させた鼠に至っては、死神や悪魔そのものとして扱われなければ辻褄があわないことになります。
では、なぜ狼だけがここまで悪者として登場するのでしょうか。
講義では人狼が引き合いに出されましたが、阿部謹也によれば実際の人狼(人間狼)とは、街を追放された犯罪者だったとのことです。
追放された犯罪者が街の付近を徘徊する様子が、狼のイメージと被ったと言うのは、実にありそうな話に思えます。
では、しかし、狼は果たして「人狼(=犯罪者)と並べられるような頻度」で街の近くを徘徊していたのでしょうか?
これを考えると、NOのような気がしてなりません。何故なら、そこまで人間の近くに狼が頻出していたのであれば、やはり狼に寄る被害がそれなりに多かったと思われるからです。
統計的に狼による被害が少なかったとなれば、「狼に似ていて、かつ人間の近くに居るもの」がその正体ではないでしょうか?
すばり、野良犬がそのシルエットや遠吠えなどから「狼だ」と誤解されていたと言うのが真相ではないかと想像します。

少し話がずれますが、ヨーロッパの各地に伝わる狼男伝説に関して。
狼男の特徴のうち「正気を失い凶暴化する」、「狼男に噛まれた者は狼男になる(=唾液や血液で感染する)」、「水を渡れない(=水を怖がる)」この決定的な症状から、私は(怪物としての)狼男とは、ほぼ間違いなく狂犬病の患者だと考えております。
これが正しいと仮定して、前述した話「狼だと思われていたのは、実はほとんど野良犬だったのでは?説」に絡めると……

野良犬が噛み付く→狂犬病発症→「狼男だ!近くに狼がいるぞ!」→ワオーン→「狼だ!」

「野良犬の近くには狼男も出没しやすい」と言う構図が完成し、一本のラインが見えてくるような気がします。
これに加え、犯罪者に対する恐怖感などが手伝い、狼はどんどん悪役へと変貌していったのではないでしょうか。
「当時のヨーロッパに狼に似た犬種(それも原種に近いプリミティブ・ドッグ)が存在したか」と言う点が気になるところです。
今日の講義はグリム兄弟の人生後半でした。
憲法を一方的に変更したハノーファー国王に対して抗議し、追放されたグリム兄弟は、その後「自由のために戦う英雄」みたいな像となって議員にまでなるわけですが、当時のドイツにおける「自由」の定義も中々興味深いところです。
中世世界では人間は「自由人」と「不自由人」に分けられ、生活の一つ一つを自分で決定できる者を自由人、それができない隷属民などを不自由人と定義していた模様です。
しかし、この手の資料を読めば読むほど「自由人ほど多くの規律に縛られている」ような印象を受けます。
隷農のような土地に縛られた隷属民はともかくとして、放浪楽師や遍歴職人のような放浪者達にとっては、自由人と不自由人の定義が逆転していたようにすら感じられます。
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の数々のエピソードなどは、その象徴とさえ言えるでしょう。
このような「自由に関する意識」は、かなり高い水準の精神文化と言えますが、中世から近世にかけて、彼らの意識がどのように展開、発展していったか、興味があるところです。

リンカーンが例えとして出てきましたが、幕末が好きな私としては土佐藩から始まった自由民権運動のほうが頭をちらついていました。



「過(あやま)つ勇気を持つこと」
今日の金言です。
間違えて恥をかくことを恐れたところで、最終的に間違いをゼロにすることなど不可能に近いです。どうせ間違いを書いてしまうのなら、恥をかくことを恐れずにガンガン突き進みましょう。みたいな意味です。
確かに、ここんところは確証や裏付にこだわり過ぎて、「どこまで調べたら次へ進むのか」が自分でも見えなくなっていました。
この言葉をいただき、お脳に加速がかかったので、色々始めてみようと思います。
一回目はグリムの生まれ育った状況と当時のドイツ情勢についてがメインでした。
ハーメルンの笛吹き男はドイツ伝説集に載っているだけで、グリム童話には載っていないことを知ってちょっとビックリ。
年代や舞台がはっきりしている物語はメルヘンの定義から外れてしまうそうです。
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プロフィール
HN:
凪茶(ニャギ茶)
性別:
男性
職業:
くたばり損ないの猫
趣味:
ドイツとイギリス
自己紹介:
ドイツ・イギリスを中心に中世ヨーロッパの生活習慣、民俗学などを勉強しています。
最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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