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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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マックス・リューティに関する講義が続いたので、まとめていきます。
昔話を解釈する際に、登場するアイテムや要素のひとつひとつに拘ると、大きな誤りに陥ることがあるそうです。
例えば、有名なところではユングによる赤ずきんの解釈ですが、ユングは赤ずきんのかぶっていた頭巾の「赤」を深層心理的な象徴として解釈しています。
しかし御存知の通り、赤ずきんに赤いずきんをかぶせたのはフランスのペローであり、原型となったであろう元々の昔話には「赤」などと言う色は登場しないことを、後年指摘されています。
まさしく、細部にこだわった結果、このような誤りに陥ってしまうわけで、この意味でマックス・リューティの主張は正しいわけです。
講義の内容は、概ね以上のようなものでした。
これは、「細部にこそ注目する」という私の姿勢とは180度とまではいかないものの、かなり異なります。
そもそもの主張が「この昔話はなにを伝えようとしていたのか?」という疑問からはじまっているところに、ひとつの齟齬があるのではと感じるわけです。
私がグリムに関してこれまでに書いてきたことで、特に気をつけていたことですが、私はグリム童話について考察するときには必ず「グリムの意図」というものを重要視しています。
というのも、ぶっちゃけた話になりますが、正直なところ、歴史的・民族学的な視点ではグリム童話はグリムによる改変が多すぎて参考にすることができないからです。実際、ドイツ民俗学に関しては同じグリムの「ドイツ伝説集」のほうが、より原型に近い物語がたくさん収録されており、「ああ、これがグリム童話のあの話に混ざったんだな」と見受けられる話も多数見つけることができます。
(誤解なきよう加えておきますが、ではグリム童話には資料的価値はないのかというと、間違ってもそんなことはありません。それどころか、ドイツを中心とした中世ヨーロッパにおける価値観、死生観、常識など、資料の宝庫と言えます)
よって私は、基本的にグリム童話とは「昔語を楽しむための童話」と捉えており、「グリム童話を通して原型となった物語の意図を直接読み取ること」はしておりません。そこから読み取れるのは「昔話の意図」ではなく、実は「グリムの意図」であることが、往々にしてあるのです。
では逆に、これを突き詰めたら? という考えに基づいたものが私の読み方です。
先ほど「私の姿勢とは180度とまではいかないものの」と書いたのは、別にマックス・リューティに敬意を表してのことではなく、いわゆる「細部にこだわったがゆえの矛盾」は、「昔話の意図」として解釈すると失敗に陥るものの、「グリムの意図」として読み取れば矛盾なく繋がるのではないかと考えるからです。
例えば件のユングの言う赤ずきんの解釈「赤は深層心理を表している」という話ですが、これを「(昔話としての)赤ずきんの物語はなにを伝えようとしているのか」と読み取ると、ペローの時点で矛盾が発生します。
現代と違い情報の少ない時代のことですから、実際のところ、赤ずきんに「赤」を付け加えたのがペローであることを、ユングは知らなかったのでしょう。しかしこの矛盾を笑うことはできません。
なぜなら、この問いを「グリムは赤ずきんの物語を通してなにを伝えようとしているのか」と置き換えると、(この説におけるユングの意図はさておき)ユングの言う深層心理説でも矛盾なく説明できるからです。
この意味で、グリムが「ペローのかぶせた赤いずきん」に深層心理におけるなにかしらの象徴を見出していた可能性を否定することはできません。
そもそもの姿勢が「昔話の意図」を読み取ることにあるのか、「グリムの意図」を読み取ることにあるのか、それによって物語の解釈の仕方は変わってくるのではないかというのが、マックス・リューティに関する私の私見です。
以前にも書いたことですが、「普段はディティールを書かないグリムが、あえて書いたディティールの部分」には、グリムが「これだけは外せない」と考えていた痕跡を見出すことができると思うのです。
「原型らしき昔語」から「グリム童話」に変化する際に、グリムが原型に対し「どのように手を加えたか」のように、つまり以前の赤ずきんに関するエントリで書いた「引き算」の法則をあてはめて見ると、その「手を加えた部分」あるいは「手を加えなかった部分」にこそ、なにかしらのグリムの意図が垣間見えてくるわけです。
10月19日のエントリ「ねずの木(柏槇)の話」において、ねずの木の薬効について言及しましたが、グリム童話にはこのような「露骨に不自然な描写」が非常に多く見て取れます。
このような細部に注目してこそ、「グリムの意図」が、そしてグリムが子供たちに伝えねばと考えたであろう「昔話の意図」が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
そしてそのような「うがった」見方をすることによって、はじめて発見できるものもあるわけで、このあたりにもグリム童話の楽み方が隠れていると私は考えるわけです。
さて、半年ほどに及んだグリム講座でしたが、次の木曜日で一応の最終回となります。
来年は「アンデルセン童話およびグリム童話」を題材に、新たな講義をはじめるそうです。実のところ、私は昔話よりも創作が中心のアンデルセン童話にはそれほどの興味はないのですが、参加しようかするまいかかなり悩み中です。
一度さらりと読んでみてから考えてみようと思います。
昔話を解釈する際に、登場するアイテムや要素のひとつひとつに拘ると、大きな誤りに陥ることがあるそうです。
例えば、有名なところではユングによる赤ずきんの解釈ですが、ユングは赤ずきんのかぶっていた頭巾の「赤」を深層心理的な象徴として解釈しています。
しかし御存知の通り、赤ずきんに赤いずきんをかぶせたのはフランスのペローであり、原型となったであろう元々の昔話には「赤」などと言う色は登場しないことを、後年指摘されています。
まさしく、細部にこだわった結果、このような誤りに陥ってしまうわけで、この意味でマックス・リューティの主張は正しいわけです。
講義の内容は、概ね以上のようなものでした。
これは、「細部にこそ注目する」という私の姿勢とは180度とまではいかないものの、かなり異なります。
そもそもの主張が「この昔話はなにを伝えようとしていたのか?」という疑問からはじまっているところに、ひとつの齟齬があるのではと感じるわけです。
私がグリムに関してこれまでに書いてきたことで、特に気をつけていたことですが、私はグリム童話について考察するときには必ず「グリムの意図」というものを重要視しています。
というのも、ぶっちゃけた話になりますが、正直なところ、歴史的・民族学的な視点ではグリム童話はグリムによる改変が多すぎて参考にすることができないからです。実際、ドイツ民俗学に関しては同じグリムの「ドイツ伝説集」のほうが、より原型に近い物語がたくさん収録されており、「ああ、これがグリム童話のあの話に混ざったんだな」と見受けられる話も多数見つけることができます。
(誤解なきよう加えておきますが、ではグリム童話には資料的価値はないのかというと、間違ってもそんなことはありません。それどころか、ドイツを中心とした中世ヨーロッパにおける価値観、死生観、常識など、資料の宝庫と言えます)
よって私は、基本的にグリム童話とは「昔語を楽しむための童話」と捉えており、「グリム童話を通して原型となった物語の意図を直接読み取ること」はしておりません。そこから読み取れるのは「昔話の意図」ではなく、実は「グリムの意図」であることが、往々にしてあるのです。
では逆に、これを突き詰めたら? という考えに基づいたものが私の読み方です。
先ほど「私の姿勢とは180度とまではいかないものの」と書いたのは、別にマックス・リューティに敬意を表してのことではなく、いわゆる「細部にこだわったがゆえの矛盾」は、「昔話の意図」として解釈すると失敗に陥るものの、「グリムの意図」として読み取れば矛盾なく繋がるのではないかと考えるからです。
例えば件のユングの言う赤ずきんの解釈「赤は深層心理を表している」という話ですが、これを「(昔話としての)赤ずきんの物語はなにを伝えようとしているのか」と読み取ると、ペローの時点で矛盾が発生します。
現代と違い情報の少ない時代のことですから、実際のところ、赤ずきんに「赤」を付け加えたのがペローであることを、ユングは知らなかったのでしょう。しかしこの矛盾を笑うことはできません。
なぜなら、この問いを「グリムは赤ずきんの物語を通してなにを伝えようとしているのか」と置き換えると、(この説におけるユングの意図はさておき)ユングの言う深層心理説でも矛盾なく説明できるからです。
この意味で、グリムが「ペローのかぶせた赤いずきん」に深層心理におけるなにかしらの象徴を見出していた可能性を否定することはできません。
そもそもの姿勢が「昔話の意図」を読み取ることにあるのか、「グリムの意図」を読み取ることにあるのか、それによって物語の解釈の仕方は変わってくるのではないかというのが、マックス・リューティに関する私の私見です。
以前にも書いたことですが、「普段はディティールを書かないグリムが、あえて書いたディティールの部分」には、グリムが「これだけは外せない」と考えていた痕跡を見出すことができると思うのです。
「原型らしき昔語」から「グリム童話」に変化する際に、グリムが原型に対し「どのように手を加えたか」のように、つまり以前の赤ずきんに関するエントリで書いた「引き算」の法則をあてはめて見ると、その「手を加えた部分」あるいは「手を加えなかった部分」にこそ、なにかしらのグリムの意図が垣間見えてくるわけです。
10月19日のエントリ「ねずの木(柏槇)の話」において、ねずの木の薬効について言及しましたが、グリム童話にはこのような「露骨に不自然な描写」が非常に多く見て取れます。
このような細部に注目してこそ、「グリムの意図」が、そしてグリムが子供たちに伝えねばと考えたであろう「昔話の意図」が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
そしてそのような「うがった」見方をすることによって、はじめて発見できるものもあるわけで、このあたりにもグリム童話の楽み方が隠れていると私は考えるわけです。
さて、半年ほどに及んだグリム講座でしたが、次の木曜日で一応の最終回となります。
来年は「アンデルセン童話およびグリム童話」を題材に、新たな講義をはじめるそうです。実のところ、私は昔話よりも創作が中心のアンデルセン童話にはそれほどの興味はないのですが、参加しようかするまいかかなり悩み中です。
一度さらりと読んでみてから考えてみようと思います。
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プロフィール
HN:
凪茶(ニャギ茶)
性別:
男性
職業:
くたばり損ないの猫
趣味:
ドイツとイギリス
自己紹介:
ドイツ・イギリスを中心に中世ヨーロッパの生活習慣、民俗学などを勉強しています。
最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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