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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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浅草のかわとはきもの博物館に行って来ました。
あまり多くはありませんが、様々な時代、国の靴のレプリカが展示されており、その造りなどじっくりと見てこれました。
(もっとも、国内でこう言った展示をしているところ自体が殆ど無いので、ここはかなり多いほうだと思います)
博物館の方に話を聞けないものかと相談したところ、かなり詳しい年配の方を紹介していただけ、興味深い話をたくさん聞けました。
また、世界の靴の歴史について書かれた本(詳しくは判りませんが、その方もコピー本しか持っていない、どうやら相当珍しい本の模様です)の一部をコピーさせて頂けました。
ドイツ農民の靴の代表格ともいえる「モカシン」の構造などがかなり判りやすく図解されており、非常に参考になるお土産になりました。
肝心の本のタイトルをメモするのを忘れたのが、痛恨の失敗です。



■靴のタイプおよびその作り方は、どのようなものだったか。

一般庶民や農夫はモカシンと呼ばれる足袋を簡素にしたもの(殆ど革袋)を使用していたが、靴底などパーツごとに分けて作る(いわゆる現代のような靴)も作られてはいたようです。
ただし、現代のものと全く同じような形状かというとそうでもなく、
①左右の区別がない
 右足と左足で履き分けることはなく、現代におけるスリッパのように、左右別だと不便だという認識の方が強く、脚の健康の概念はほぼなかったようです。
②靴型と呼べるものも無かった
 ①に関連して、そもそも精巧に足の形に合わせて作るというものではなかったようです。
③ヒールは高くはなかった
 高価な釘を靴に使用することはなく、産業革命以前は靴は全て手縫いだったようです。
 当然、靴底の厚さにも限度があり、縫うことが出来る厚さが靴底の厚さの限界だったようです。


■(特に一般庶民において)靴のサイズなどは個人に合わせたりしたのか。
それとも、大人用と子供用くらいの区別しか無かったのか。

大人用と子供用くらいの区別はあっても、個人レベルのサイズ調整は殆ど無かったようです。
例外的に王侯貴族などは個人用の調整があったようですが、現代のように「自分にあったサイズ」を探せるようになったのは、やはり大量生産が可能な産業革命以後だそうです。


■昔話に出てくる靴屋の小人や妖精の話には、しばしば夜中に木槌を叩いている
音が描かれるが、これは靴作りのどのような工程の描写だろうか?
革を叩いて柔らかくしている?

恐らくYESだそうです。
昔話の舞台にもよりますが、靴屋で「釘を打つ」と言う行為が行われたのが産業革命以後の話なので、それ以前ならば革を柔らかくする目的と考えるのが妥当なようです。
また、革の硬さも靴にまつわる問題の一つだったそうで、出来上がったばかりの靴はとても硬く足を痛めてしまうため、こなれて柔らかくなるまでは召使いに履かせておくなどと言うこともしばしばあったようです。
この点から鑑みても、革を柔らかくするために木槌で叩いたことは、充分に考えられるそうです。



他にも聞きたいことは山程ありましたが、なにぶんにも突然の訪問だったため、時間が押してしまいました。
忙しい中教えていただけた担当の方に感謝です。
浅草駅の周辺には、他にもいくつか皮革関係の博物館や資料館があるので、またそのうち見に行きたいところです。
課題としては膠の材料(恐らく牛の革や軟骨だとは思うが)や、その保管方法などを聞いてみたいところです。
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今日の講義はグリム兄弟の人生後半でした。
憲法を一方的に変更したハノーファー国王に対して抗議し、追放されたグリム兄弟は、その後「自由のために戦う英雄」みたいな像となって議員にまでなるわけですが、当時のドイツにおける「自由」の定義も中々興味深いところです。
中世世界では人間は「自由人」と「不自由人」に分けられ、生活の一つ一つを自分で決定できる者を自由人、それができない隷属民などを不自由人と定義していた模様です。
しかし、この手の資料を読めば読むほど「自由人ほど多くの規律に縛られている」ような印象を受けます。
隷農のような土地に縛られた隷属民はともかくとして、放浪楽師や遍歴職人のような放浪者達にとっては、自由人と不自由人の定義が逆転していたようにすら感じられます。
「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の数々のエピソードなどは、その象徴とさえ言えるでしょう。
このような「自由に関する意識」は、かなり高い水準の精神文化と言えますが、中世から近世にかけて、彼らの意識がどのように展開、発展していったか、興味があるところです。

リンカーンが例えとして出てきましたが、幕末が好きな私としては土佐藩から始まった自由民権運動のほうが頭をちらついていました。



「過(あやま)つ勇気を持つこと」
今日の金言です。
間違えて恥をかくことを恐れたところで、最終的に間違いをゼロにすることなど不可能に近いです。どうせ間違いを書いてしまうのなら、恥をかくことを恐れずにガンガン突き進みましょう。みたいな意味です。
確かに、ここんところは確証や裏付にこだわり過ぎて、「どこまで調べたら次へ進むのか」が自分でも見えなくなっていました。
この言葉をいただき、お脳に加速がかかったので、色々始めてみようと思います。
ハーメルン市で起きたことについて想像を巡らせてみる試みです。
まずは推測とかを抜きに、どうやら間違いないらしい史実のみを抜き出します。
エーフェルシュタイン家の足跡その1と被る部分が大きいです。

――――

◆1259年
神聖ローマ帝国のフルダ修道院が、既に手を離れてしまった(手に負えなくなってしまった)ハーメルン市の実権をミンデン司教区に売却したこと。

◆1260年
7月28日、ミンデン市教区がハーメルン市に宣戦布告したこと。
廃村ゼデミューンデで戦闘があり、ハーメルンの若者が大勢死んだこと。
その結果、ハーメルン市の最大勢力だったエーフェルシュタイン家が敗北したこと。
この戦闘の際にハーメルン市を守ろうとした若者(※)が大勢捕らえられ、皆殺しにされたこと。
9月13日、ハーメルン市の実権を、ミンデン司教区とヴェルフェン家率いるブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国とで折半すると言う取り決めが交わされたこと。

◆1277年
ハーメルン市のボニファティウス律院とヴェルフェン家との間でハーメルン市の権益に関する取り決めが交わされている(実質的に街の支配権をヴェルフェン家が乗っ取った)こと。

◆1284年6月26日
ハーメルン市の子供たち130人が、笛吹き男に連れられ失踪したこと。

――――

※「若者」に関する考察
若者と言いますが、年齢に関する正確な記録は(少なくとも手元には)ありません。
あえて言うのであれば、当時の常識としては子供・若者という概念はあまり無く、基本的に6歳を超えたら大人と同じ扱いを受けていたようです。
逆に言えば、あえて「若者」という記述が残っている以上、「大人(一人前)未満」であり、かつ「6歳以上」であった事が読み取れます。
つまり、農家の子供や職人の徒弟などが戦闘に参加したと推測できるわけです。

となれば、大人は戦わなかったのか? と言う素朴な疑問が当然湧きます。
もちろん戦ったでしょう。ヴェルフェン家の軍隊に対して子供だけでは戦闘にならないことは明白です。
梅原猛流の解釈をすると、わざわざこのような「子供が戦った」と言う記録が残されているという事は「それが歴史的に特殊なことであった」という表れと言えます。
何故ならば、戦争で大人が死ぬのは「当たり前だから」です。
「若者が戦い、死んだ」という記述は、もちろん大人も大勢死んでおり、その上で「大勢の子供も戦いに参加し、死んだ」つまり「特筆すべき痛ましい事件だった」と解釈すべきと思います。

――――

象徴的な出来事のみを列挙すると、これくらいでしょうか。
興味深いのは1260年のゼデミューンデの戦いです。
「この歴史こそがハーメルンの失踪事件の真相であり、笛吹き男とは軍隊の先頭を行くラッパ吹きだった」
このような説がドイツでは近代まで有力視されていたそうで、ドイツ政府が国民に民族意識を鼓舞する為にこの伝説を利用していたようです。
しかし、多くの古文書が失踪事件は1284年6月26日に発生したと記録しており、また1260年~1284年の間にもハーメルン市には政治的に多くの変化があったため、この24年の差を「誤差」として済ませるには無理がありすぎると指摘されています。
しかし同時に、「1260年7月28日に戦闘開始、ゼデミューンデにてハーメルン市の多くの若者が命を落としたこと」は、間違いない事実のようです。

――――

さて、ここからは想像の話になります。

1260年に多くの若者が死んだことは事実。
1284年に130人の子供たちが失踪したことも事実。
つまり、1260年の戦争による犠牲のわずか24年後に、ハーメルン市は「二度目の子供たちの消失」を体験していることになります。
24年。当時の感覚では、1260年の戦いを生き延びた市民がヴェルフェン家の支配の元で新たな子供を作り、その子供が大人になり子供を生むのに充分な時間と言えましょう。
(重ねて言いますが、当時は6歳を超えると大人と同じ扱いです。特に隷農や乞食など、ツンフトに縛られない者たちは、身体的に可能になり次第子供を作ることが出来たはずです。仮に(現代日本的な常識を無理やり当てはめて)18歳で子供を作ったとしても、1284年には6歳になっている計算になります)
つまり、1284年に失踪したのは、「生き延びた市民の孫世代」と言うことになります。

同時に、戦争でハーメルン市を勝ち取ったヴェルフェン家ですが、当初はその権益をミンデン司教区とヴェルフェン家で折半しています。
実質的にはヴェルフェン家は1277年にようやくその権益の大半を手に入れてるわけで、「ハーメルン市を完全に掌握するのに手こずった」と言う印象を受けます。
ここに、旧エーフェルシュタイン家を支持しゼデミューンデで子供を失った市民とヴェルフェン家の間に、極めて深刻な対立関係があったことが推測されるわけです。
そして、その軸線上に1284年の子供たちの失踪があります。
時期的には、「戦争で勝利し、実権を掌握し、あとは市民を黙らせるだけ」こんな状況を想像することが出来るのです。

結論を言うと、「ハーメルンの子供たちの失踪事件」は、「ヴェルフェン家によるハーメルン市掌握のための工作の一環」だったのではないかと、私は推測します。
ただ、他の要素として、この時期は東ヨーロッパへの植民が盛んに行われた時期と一致するのも事実で、東欧植民説を否定する材料もありません。
(現に東プロイセン(現在のリトアニア付近)に酷似した伝説を語り継ぐ村があり、これがハーメルンの子供たちの子孫だという説もある。この考察の大前提となっている阿部謹也氏が研究を始めたきっかけのエピソードでもある)

あるいは、この辺りもごちゃまぜにして考えたほうが良いのかも知れません。
植民請負人(これが笛吹き男の正体だとする説も有力)なる者の存在もちらついており、その語感からは、東欧への植民が大きな利益をもたらす事業であった事が伺えます。
ヴェルフェン家が率先してこのような事業を行なっていたとしても、何ら不思議はありません。
敗北して尚もエーフェルシュタイン家を支持する言わば「残党」の子供たちを人質兼奴隷にする形で東の地方へ連れ去った、なんて説はどうでしょう。

なんか、ヴェルフェン家の子孫の方が読んだら怒られそうですね。
怒られませんように……。
一回目はグリムの生まれ育った状況と当時のドイツ情勢についてがメインでした。
ハーメルンの笛吹き男はドイツ伝説集に載っているだけで、グリム童話には載っていないことを知ってちょっとビックリ。
年代や舞台がはっきりしている物語はメルヘンの定義から外れてしまうそうです。
中央大学の公開講座「グリム童話200年の秘密」
申し込み人数が少なすぎて開講が危惧されていたようですが、今日連絡があって無事に開講することになったそうです。
良かった良かった。
講師の先生に色々聞きたいことがあるので、個人的に質問する機会があれば良いのですが……。
「ハーメルンの笛吹き男」に深く関わってくるエーフェルシュタイン家という家柄について手元にある文献とwikiを中心にまとめてみる試みです。
エーフェルはEverのドイツ語読み(で、いいのでしょうか?)、シュタイン(Stein)は英語でのStone、「永遠の岩」とでも訳すのが正しいのでしょうか。



当時のエーフェルシュタイン家を取り巻く状況

1180年、当時の神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ・バルバロッサ赤髭公が、かねてより対立していた従兄弟のハインリヒ獅子公に勝利し、ドイツ北部の公領を奪取。
この戦いで赤髭公に組みしていたのがエーフェルシュタイン家、獅子公に組みしていたのがヴェルフェン家という構図がある。
赤髭公が勝利した際に、エーフェルシュタイン家はヴェーゼル川沿いに建設されつつあったハーメルン市の知行権を与えられる。

また、この頃のエーフェルシュタイン家は周辺の各地に多くの城を持ち、それぞれで獅子公に与するホンブルク家、シュピーゲルベルク家等と抗争を続けていた。
ハーメルン市におけるエーフェルシュタイン家とヴェルフェン家の抗争は、この地方全体で勃発していた赤髭公と獅子公の戦いの一幕であったことが伺える。
特にハーメルン市はヴェーゼル川にかかった橋梁(それもかなり軍事色の強い)を中枢としているので、川の西への進出を目論んでいたヴェルフェン家にとっては喉から手が出るほど欲しい街だったと言える。

ハーメルン市は管轄司教区であるフルダ修道院から事実上の独立をしており、エーフェルシュタイン家はそれを全面的に援助する構図になっていた。
市参事会、市民、エーフェルシュタイン家は完全な協力関係となり、ハーメルン市のボニファティウス律院の院長もエーフェルシュタイン家から選出するなど、完全にフルダ修道院の手を離れていく。

1259年、ハーメルン市の権益確保が不可能と判断したフルダ修道院は市の知行権を無断でミンデン司教区に売却。ミンデン司教区がハーメルン市の権益を主張したためにエーフェルシュタイン家率いるハーメルン市との抗争が勃発する。

1260年
7月28日、廃村ゼデミューンデの戦いにおいて、エーフェルシュタイン家率いるハーメルン市の若者たちが全面的敗北を喫する。
(資料には「若者たち」とあるが、恐らくこの戦い以前に事実上の決着は付いており、戦える者は子供しか残っておらず、殆ど自殺(殉死?)行為の戦闘に及んだと考えるのが妥当だと思う。詳細はそのうち)
9月13日、突然、ハーメルン市の知行権をミンデン司教区とヴェルフェン家が折半するとの告知が行われる。この間にどのような交渉があったのかは謎。
ヴェルフェン家に残っている資料には「エーフェルシュタイン家に助けを求められたので(対ミンデン戦に)加勢した」とあるそうだが、結果から見れば、それが勝者による捏造であることは火を見るよりも明らかである。

1271~1272年、北ドイツを飢饉が襲う。当時としては飢饉は珍しくはないが、このタイミングでハーメルン市を襲った飢饉が街の勢力の力関係にどのような影響をもたらしたかは興味深い。
飢饉はその度に深刻な食料の高騰を引き起こし、貧富格差の増大を招いた。
恐らくハーメルン市の多くの住民は、この飢饉を決定打としてヴェルフェン家の傘下に収まることを余儀なくされたであろう。

1277年、ヴェルフェン家がハーメルン市における権益をほぼ全面的に掌握。これによってハーメルン市は名実ともにヴェルフェン家に制圧された。
一連の戦い以降、エーフェルシュタイン家の影響力は急速に衰え、歴史の表舞台から姿を消すこととなる。



概ねこんな感じでしょうか。
とりあえず、阿部謹也氏の著書「ハーメルンの笛吹き男」にて解説されているエーフェルシュタイン家の拠点について、現在の位置とその概要についてまとめてみました。

・ハーメルン
・ポレ
・ユェルツェン
・オーゼン
・グローンデ
・ホルツミンデン
・アエルツェン(著書には書かれてはいませんが、関わりが深いようです)
・シュタットオルデンドルフ(同上)



ハーメルン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハーメルン

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有名な物語「ハーメルンの笛吹き男」の舞台。
エーフェルシュタイン家とその宿敵ヴェルフェン家の抗争の中心となった。
ヴェーゼル川にかかる橋、そのすぐ横に作られたボニファティウス律院を中枢として発展した街である。
街の紋章に石臼を持ち、粉挽きがこの街の大きな産業であったこと、またその粉挽きを必要とする小麦などの穀物が豊富な土地であったことも伺える。

ちなみに当時の「粉挽き」と言う職業は、賤民視されつつも数多くの特権を持っている、極めて特殊な職業であった。
ゆえに粉挽き小屋(=水車小屋)が複数立ち並ぶ風景とは、当時の常識に当てはめると、かなり異様なものであったと思われる。
粉挽きが賤民視された理由は大きく分けて二つある。
一つは、小麦を粉にすると確実に量が減るため、泥棒のように思われていた事。
もう一つは、「水」と言う自然の力を操る「異能力者」だからである。
ハイネの解釈に照らし合わせると、キリスト教の普及により水の精霊ニクセはトイフェル(悪魔)の一種に位置づけられ、水力を利用する粉挽きは「どうやらトイフェルと契約しているらしい怪しげな人物」であった事になる。

同時に当時の領主は粉挽きに特権を与え、一般人が各自で勝手に粉を挽くことを禁じていた。粉挽きは挽いた粉の一部を取り分とし、かなりの財産を蓄える者もいたと言う。
賤民視つまり村八分のような状況に陥っても困らない立場であり、かつ一般人が無視し通すこともできないと言う、極めて特殊な立ち位置に居たのが粉挽きなのである。
推測だが「粉挽き」になることができたのは、支配階級の関係者(城を相続できない次男、三男など)だったのではないだろうか。
いずれにせよ、彼らが「水車使用強制権(バナリテとも呼ばれる)」なる奇妙な特権を持っていた事は事実である。
中世世界の一般人にとって、水車小屋とは「トイフェルの気配を漂わせつつも、誰もその権利を侵害することの出来ない、この世ならざる領域」だった。公権力の及ばないアジール(聖域、日本的に言えば駆け込み寺)としての性質があった事も記録されている。

以上を踏まえると、当時の小規模都市において「水車小屋が立ち並ぶ風景」と言うものが、どれほど異質なものであったかは、想像に難くない。
後述するが、すぐ南に位置するオーゼンおよびグローンデ(現在のエンマータール)周辺が「城の乱立地帯」であった事も、この異質な風景を説明する鍵になっているとも考えられる。
追記:4つほどの城がある程度では「乱立地帯」とはいえないそうです。ただし、軍事橋梁の存在や穀倉地帯の中心地であるために、周囲の城や諸侯が影響を及ぼそうと介入していた可能性は非常に高いようです。

そして粉挽き小屋の最大の敵は、言うまでもなくネズミである。
ネズミ退治の報酬を支払われなかった報復に大勢の子供を連れ去った「ハーメルンの笛吹き男」の伝説は、このような土壌で生まれたのである。



ポレ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ポレ

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有名な童話「シンデレラ」の発祥の地として知られる街である。(とは言え、シンデレラ自体フランスのペロー童話を元に作られているらしいので、後付け設定である可能性が高い)
エーフェルシュタイン伯の城跡が残っており、wikiによればここにあるポレ城こそがエーフェルシュタイン伯の本拠地だったとある(恐らく街の広報がソースと思われる)が、エーフェルシュタイン城として文献に載ったのが1285年(エーフェルシュタイン家が既に没落している時期)であり、不自然さを感じる。
エーフェルシュタイン城のwiki(後述)によれば、エーフェルシュタイン城はここではなく、ポレ城より東南東10キロ地点にあったとする説が有力な模様。



ユェルツェン
http://en.wikipedia.org/wiki/Uelzen

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検索しても「ユルツェン」しかヒットしないが、綴りが「Uelzen」であることから、ここを指していると思われる。
しかし、疑問点としてエーフェルシュタイン家の本拠地からあまりにも遠すぎる事が上げられる。
wikiを見てもエーフェルシュタイン家に関する記述は見られない。またこの町の設立は1277年となっており、この時期はエーフェルシュタイン家の没落期に該当する。
この時期のエーフェルシュタイン家に、新しい街を作る力があったとは到底考えられない。
地理的にはむしろ宿敵ヴェルフェン家の拠点であるハノーファー市やブラウンシュヴァイク市に近い。

更に、こことハーメルン市以外のエーフェルシュタイン家の拠点となった都市の紋章には、必ずといって良いほどエーフェルシュタイン家の紋章である「冠獅子」の図案が入っているが、ここユェルツェンの獅子に関しては「冠」を頂いていない。
この図案はむしろ宿敵ヴェルフェン家の拠点の一つブラウンシュヴァイク市の紋章に近いと言える。
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/ブラウンシュヴァイク
素人考えではあるが、エーフェルシュタインに縁の強い「アエルツェン」という街(後述)があるので、大元となった資料(恐らくラテン語で記述されているもの)にて混同されていた可能性を考慮するべきか。
あるいは、かつてこの名で呼ばれた町が他にもあったと言う可能性も考えられる。



オーゼンおよびグローンデ
http://ja.wikipedia.org/wiki/エンマータール

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現在の「エンマータール」の旧名にそれぞれの名が見受けられる。
エーフェルシュタイン城の直轄地のような位置づけで、没落期にはホムブルク家との抗争の舞台でもあった。
オーゼンやグローンデは統合される前の土地の名前で、それぞれにエーフェルシュタイン家の城があった模様。
他にもヘーメルシェンブルク(これも古い地名)城などの記録があり、城の密集地帯だったことが伺える。
現代日本の感覚で言うならば、エーフェルシュタイン城を東京駅とすると、エンマータールは新宿の超高層ビル群のような位置付けだった事が想像できる。
となると、ハーメルン市はオーゼン城やグローンデ城の第二の城下町(構造的に軍事城砦では無いので、直轄の経済都市)のような関係にあったのではないだろうか。
城が沢山あるということは、その城を相続できない次男、三男も城の数に比例して居たと言うことでもあり、彼らが周辺の都市にて特権を持つ職業に就いた事も自然と言える。
追記:ハーメルン周辺は決して城の乱立地帯とはいえないようですが、しかし城を相続できない次男・三男の存在は紛れもない事実です。よって、この部分はまだ否定はしないでおきます。

阿部謹也によれば、中世貴族の次男、三男は婿入り先を探して遍歴騎士となることが多かったようだ。
しかし、少なくともこの時期に限って言えば、北ドイツでは赤髭公と獅子公の戦いが激化していた。戦争の真っ只中を命の危険を犯して遍歴するよりも、ハーメルン市のような受け皿となる都市に落ち着く方が現実的だったのではないかと想像する。
こう考えれば、前述した「ハーメルン市の異質な風景」を説明することが出来るのではないだろうか。



ホルツミンデン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホルツミンデン

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wikiによれば、「おそらく1197年から1202年までの間にエーファーシュタイン伯の市場町・関税所として nova plantatio(新しい町)が建設された」とされる、ハーメルンと並ぶエーフェルシュタイン家によって作られた街といえる。
1408年にヴェルフェン家およびホムブルグ家と戦った記録があり、この地ではかなり後期までエーフェルシュタイン家は持ちこたえていたことがうかがえる。



アエルツェン
http://ja.wikipedia.org/wiki/アエルツェン

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エーフェルシュタインの別の呼び名「エーファーシュタイン家」で検索するとヒットする街。
エーフェルシュタイン家と関わりが強く、直轄地であった時期もあった模様。
wikiによれば、ヴェルフェン家ブラウンシュヴァイク公に押され、没落しつつあるエーフェルシュタイン家が助けを求め、隠居先としていた街らしい。
1408年ヴェルフェン家との婚姻関係を結んでおり、これを持って事実上完全に吸収されたと見るべきか。



シュタットオルデンドルフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/シュタットオルデンドルフ

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かつてのエーフェルシュタインの本拠地、エーフェルシュタイン城があった場所。
著書には「エーフェルシュタイン城」とのみ書かれており、それがどの土地に存在していたのかが書かれていなかったため、地道に探した。
各都市のドイツ語wikiを調べ直したところ、アエルツェンにて、なんとズバリ「Burg Everstein(エーフェルシュタイン城)」のリンクを発見。
Burg Everstein:http://de.wikipedia.org/wiki/Burg_Everstein
ここに掲載されている地図の座標から割り出す事で、現在のシュタットオルデンドルフの西の森に存在していた事が判明。(正確には、地図上のネーゲンボルンの南西、アルホルツェンの北西にあったらしい)
街の北にホムブルク城跡という史跡があるが、こちらはエーフェルシュタインとは関係ない模様。



既に触れていることですが、それぞれのwikiに掲載されている町の紋章を見ると、ユェルツェンを除く全ての町においてエーフェルシュタイン家の紋章である「冠獅子」が意匠されている事が判ります。
何故か肝心のハーメルン市に関してはこの限りではありません。ハーメルン市はエーフェルシュタイン家とヴェルフェン家の抗争の大きな舞台だったことと関係があるのかも知れません。非常に興味深いところです。

古本屋を地道に探すことでは発見は困難、また見つけてもプレミアムなどにより高額になることは明白と判断しました。
amazonマーケットプレイスに出品されているものは高額なので見合わせていましたが、手に入るうちに手に入れたほうが良いとの助言もあり、思い切って購入しました。
上下巻合わせて17,995円。
本二冊にえらい金額を出すことになりましたが、一生ものの蔵書となることを期待したいところです。
図書館で借りっぱだったものを、明日明後日にでも返してこないとなりません。

よくあるパターンですが、これで再販が決定したりしたら笑っちゃいますね。
まあ、昨日まで私自身が強く希望していた事なんですけど。
グリムの「赤ずきん」が映画化と言う事でレンタルしてみました。

うーん、ストーリー的にははっちゃけ過ぎて、ごく普通のファンタジーと言ったところでしょうか。
謎解きを見せたいのか、恋愛ドラマを見せたいのか、今ひとつピンとこないお話でした。

舞台演出に関しては良く出来てた方ではないかと。
ドイツ北部が舞台と思われる村や家屋、祭りの様子などが細かく描写されており、特に祭りのシーンでハーディ・ガーディが出てくる辺り、中々凝った演出を見せてくれます。
中世楽器の定番バグパイプが登場しなかったのが残念といったところでしょうか。
amazonのマーケットプレイスで出品されてた「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」。
中世にどうやら実在したらしい伝説の放浪者ティルが、高慢な職人親方や貴族・王族を面白おかしくからかって回る話です。
とは言え、このティルは鼻持ちならない親方や旅籠の犬をあっさりと殺す辺り、犬好きとしては到底看過出来ぬところもありますが。犬に罪はねぇだろ。

と、小説にキレてもしょーがないので軽く解説します。
ティルは親方にこき使われる遍歴職人の意識の象徴のような位置づけで、当時の社会に蔓延していた親方と遍歴職人の対立関係が背景にあるわけです。
こういう前提で見ると、親方に雇って貰えないどころか、犬をけしかけられて追い払われる遍歴職人の姿などが浮かび上がって来るわけです。

この本の面白いところは、ほとんどの話に阿部謹也による注釈や解釈が書かれており、↑のような当時の生活様式や常識などがかなり詳細に説明されている事。
一番興味の強い遍歴職人に関する描写が豊富にあると言う事なので、しばらく探してました。

この本が手に入った事で、今探してる本はグリム・ドイツ伝説集の上下巻のみと言うことになります。
あと4年で初版発行から200年経つので、記念に再販とかしないでしょうかね?
東小金井・武蔵小金井・国分寺と古本屋めぐり。
見つからず。

ヤフオクで落とした「中世の星の下で(阿部謹也著)」が到着。
ハウスブーフマイスターの「七つの惑星とその子ら」の詳細な解説が欲しかったので、じっくりと読みたいところです。
が、今は図書館で借りてるドイツ伝説集の返却日が迫ってるのでそっち優先になってますね。
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プロフィール
HN:
凪茶(ニャギ茶)
性別:
男性
職業:
くたばり損ないの猫
趣味:
ドイツとイギリス
自己紹介:
ドイツ・イギリスを中心に中世ヨーロッパの生活習慣、民俗学などを勉強しています。
最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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