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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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 岩波文庫の完訳グリム童話集を全巻読みました。
 一日に三~四話ずつ読んでいたので、随分と時間がかかりましたが、その分じっくりと味わえたと思います。

 翻訳者である金田鬼一氏の言い回しは、正直なところかなり古臭く、特に解説において仏教的な比喩が目立ったのですが、しかし、かなり原文の意図に忠実に訳されているようです。
 五巻の最後に書かれているのですが、金田氏はお子さんを二人、幼いうちに亡くされているそうで、それによって仏教の道へと入ったのではないかと愚考します。
 亡くされた子供たちに捧ぐものとして、その上で氏の主張を踏まえて改めて読むと、この古臭い翻訳にはまるで子供に読み聞かせるような、とてつもない愛情が感じられます。
 
 また、後書きで念入りに説明されていますが、しばしば「本当は怖い」などと話題になる通り、グリム童話には残酷な話も多々含まれています。
 しかし、それらの話を「残酷だから子供に見せるべきではない」と言う(ごく一般的な)論調を一蹴しています。
 氏の「『グリム童話』の取扱い方に関する私見」が書かれていたので、その一部を抜粋したいと思います。

――引用ここから――
 『グリム童話』には残忍な趣向があると言われるが、これは何も『グリム童話』に限ったことではない。私なども子どものころ、「ばばあ食ったじじいや、ながしの下の骨をみろ」とうたっていたことを想いだす。
(中略)
 要するに、『グリム童話』は、大自然の法則に法って正邪善悪の差別を教え、万物相互扶助のもろもろの生態を示して、その基調となる草木愛、すなわち対人間愛や対動物愛を超越した対植物、さらにまた対無生物の大乗的純愛の尊さを悟らせる。この心境が、楽あれば苦あり苦あれば楽ある長い旅路のいや果ての収穫でなければならぬ。『グリム童話』は、いわば大自然が書きしるし、人間これを読むとでも言うべき記録で、児童どころか成人にも読みちがえられてはならぬ。読みちがえなければ、『グリム』は世にも楽しい話の宝庫である。
(後略)
――引用ここまで――


 
 さて、内容についてです。
 正直、私は中世ドイツの民俗学を勉強することを目的として、言ってみれば「うがった見方」でグリム童話を読みました。
 金田氏の志とは大きく異なる方向性ではありますが、物語におけることの善悪や是非は横に置いといて、「なぜ、どのような背景において、このような民話・寓話が生まれたのか、伝えられたのか」に思考を巡らせることにより、昔のドイツの人々の生活風景や価値観を垣間見ようという試みです。

 まず、全体を眺めて、とても強く感じることがあります。
 それは、中世から近代にかけてのドイツの飢餓、飢饉の厳しさ、食料を失うことへの恐れです。
 その根拠として、グリム童話にしばしば登場する三つのキーワードを挙げたいと思います。
 
 一つ目は、食人行為。
 「柏槇の話」をはじめ、食人行為の描写はグリム童話では珍しくありません。
 既に触れたように、残酷な側面としてしばしば取り上げられるこの描写ですが、人が人を食べる状況とはなんだろうかと考えると、やはり極限状態の飢餓が真っ先に思いつきます。
 諸説ありますが、有名な赤ずきんは元はかなりエロチックな話で、類話の中でも古いものには「狼の言うままに、上着から下着まで、一枚一枚脱いでは暖炉に放り込む」と言う、露骨なストリップ描写も見受けられます。
 その上で、狼の待つベッドに入るわけですから、ここで「狼に食われる」と言う言葉がなにを暗示しているかは言うまでもありません。
 ペロー童話の時点ではこの露骨な描写はなくなっていたようですが、ペロー童話は元々宮廷サロンの女性向けに書かれたという点、「少女がベッドの中で狼に食われて物語が終了する」という点において、やはり性的な暗示を免れません。
 しかし、グリムはこのあとに「狩人が狼の腹を裂いて赤ずきんとおばあさんを助け出す」と言う描写を追加しています。もちろん、性行為の結果としてお腹の中に入るはずがありません。グリムの「赤ずきん」においては、狼は赤ずきんを性的な意味ではなく、文字通りの意味で「食べた」ことになります。
 つまりグリムは赤ずきんにおける「見方によっては性行為を表していると受け取れる描写」を「明らかな食人行為の描写」へと変化させているわけです。
 この点一つを取っても、グリムが童話の中において「食人行為」にある種のこだわりというか、「欠かすことの出来ない要素」としての認識を持っていたと感じ取れる気がします。
 
 二つ目は、魔法の宝物。
 善人が善行を行った結果、神様や聖人に魔法の宝物をもらう話は、グリムにおいても一つや二つではありません。
 では、その魔法の宝物はどのようなものでしょうか。
 神様や聖人が「三つの宝物」をくれる場合、これは同じ類話を起源に持っているからかも知れませんが、必ず登場するものがあります。
 金貨を吐き出すロバや、どんな敵をも打ち倒せる武器だったりしますが、なんといっても筆頭に出てくるのが、「ご飯のしたく!」と言うと最高級の料理が無限に出てくる御膳です。
 これは、必ずといって良いほど、間違いなく「筆頭に」登場します。
 ここには、昔の人々が「魔法の宝物/神様の奇跡」になにを望んでいたのか、逆に言えば、生きていく上で、「なにを最も恐れていたのか」が現れていると考えられます。
 昔のドイツの人々は「魔法の宝物はどんなものが欲しい?」と言う問いに対し、何にも優先して「食べることに困らない宝物」を求めていたことが伺えます。
 当時の人にとって、金貨などよりも、戦う力などよりも、まず何にも増して「食べもの」こそが最も尊い宝物であったのは間違いないでしょう。
 
 三つ目は、くるみ。
 グリム童話には「三つのくるみ」がしばしば登場します。
 くるみとは、もちろん硬い殻の中に食べものが入っている植物です。(日本のくるみは「鬼くるみ」といい、特別硬いもののようですね。西洋のくるみは形状こそ同じですが、もうすこし柔らかいようです)
 グリム童話の中ではくるみの殻には食べものは入っていません。
 しばしば、王女様が想い人を取り戻すためにくるみを授けられたり、何らかの手段で入手します。
 そして、くるみの中には太陽や星のように綺麗なドレスが入っていたり、無限の金貨が入っていたり、同じく無限の宝石が入っていたりします。
 いずれにせよ、入っているのは「食べもの」ではなく、むしろ「食べられない財宝」です。
 つまり、グリム童話において、「くるみの殻」は「宝箱」として登場するのです。
 もしも、なんの前提も先入観もなく、「素晴らしい宝物が出てくる入れ物」を持って行くとしたら、小袋とか、小箱とか、そういったものが先に出てくると思います。しかし、民話や寓話では、袋や箱ではなく、くるみに宝物が詰まっています。
 なぜでしょうか? 当時の人々にとって、くるみの殻とは、神様が食料を与えてくださる際の「宝箱」に他ならなかったと考えるのが妥当です。
 「くるみの殻の中に詰まっているもの」は、それこそ「無限の金貨」「無限の宝石」に匹敵するほどの価値があるものだったのです。

 グリムがどのような意図をもってこれらの話を編集したのかは知るよしもありませんが、しかしグリムが蒐集した民話や寓話の中に垣間見えるこれらの要素からは、「その話が生まれた当時、なにが最も尊ばれていたか」を推測することが出来ると思うわけです。
 

 
 ここまで飢餓に対する恐怖を書きましたが、同時にグリム童話には不可思議な特徴があります。
 それは、死生観です。
 グリム童話において「死」と言うものは、まったく恐れる必要はないものとして描かれているように思います。
 特に、五巻の「子供のための聖者物語」においてその傾向は顕著になり、やもすれば「死ぬことの大切さ」を説いているのではを感じる話さえあります。
 また、死んだ人間はいとも簡単に蘇りますし、死んだあとにも人格を持ち続けて天国やら地獄やらをうろつきます。
 「飢餓は恐れるが、死ぬことは恐れない」こんな矛盾を感じるわけです。
 あるいは、食べものもなく、死を目前にした子供を安らかに眠らせるために、このような民話が作られたのかも知れないと言うと、あまりにも悲観的すぎるでしょうか。
 もっとも、中世後期までは終末説(近いうちに世界は終わり、すべての生物が死に絶えたのちに、善人(貧者)だけが復活するという考え方)がかなり強く信じられていたので、死に対する恐怖というものが、現代の我々の尺度とは比べ物にならないほど軽かったという点も挙げないわけには行きません。
 言い方を変えると、善人(貧者)ほど死に対する恐怖は少なく、悪人(富者)ほど死に対する恐怖が強かったとも言えます。

 別の側面から見ると、中世ヨーロッパにおいて、街の中で生活することが許されない農民(人口の90%を占めていたそうです)は、土地を荘園化して、領主の庇護を受けることにより身を守りました。
 しかし、ドイツと言う国は一七世紀にヴェストファーレン条約が締結されるまで、各領主がてんでバラバラに争っている状況でした。(一応、国も無いわけではありませんでしたが、かなり不安定な状態でした)
 ヴェストファーレン条約がどういうものかというと、簡単に言えば「戦争のルールを決めた条約」です。つまり、ヴェストファーレン条約以前には戦争のルールさえもまったく決まっていない、要するに無法地帯だったのです。
 荘園制度も(事実上)ないような状態では、農民を保護するものは何一つなく、どこぞの領主が戦争一つはじめるだけで、麦も作物も略奪され燃やし尽くされ、いとも簡単に飢饉が発生したのです。
 日本の歴史に照らし合わせれば、「歴史が始まって以来、一七世紀までずっと戦国時代」と言ったところでしょうか。
 彼らにとって、飢餓や死とは、ある日突然襲いかかってきても何の不思議もない、日常の一部だったのでしょう。
 そんな死生観の中で、圧倒的多数を占めるであろう貧しい民衆の中で「死を肯定するために」生まれたのが、このような物語なのだとも思えます。

 天沼先生の講義によれば、兄ヤーコプ・グリムはグリム童話初版発行の二五年後、ハノーヴァー国王の横暴に抗議声明を出し、追放された結果、自由のために戦う士としてドイツ国民の尊敬を受け、国会議員にまでなります。
 その背景には、それまでに蒐集した民話・寓話から感じたドイツ民衆の切実な思いがあったのかも知れません。
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 赤ずきんで検索すると、研究・考察しているサイトが山のように見つかります。
 そんな中で、昨日今日この分野に脚を突っ込んだばかりの私が物を言うのも恥ずかしい限りですが、ひとつ私もグリムの赤ずきんについて考えてみたいと思います。
 
 こちらに明るい人の間では常識ですが、グリムの赤ずきんはフランスのシャルル・ペローが書いたペロー童話に収録されているものを再構成した物語です。
 よって、赤ずきんという物語に込められた「グリムの思惑」を考えるために、とりあえずしなければならないことは「引き算」です。
 
 「グリム赤ずきん - ペロー赤ずきん = ?」
 
 答えは、

①猟師が登場する
②赤ずきんとおばあさんが助かる
③狼の腹に石を詰めて殺す

 もう一つの話のほうでは、そもそも大筋からして異なっていますが、

④狼を水の入った桶に落として溺死させる

 やや恣意的ですが(笑)、こんなところでしょうか。
 
 私がこの歳になって、改めて赤ずきんを読んで、最初に「おや?」と思ったのは、①です。これは最大の疑問といっても良いでしょう。
 まず、鉄砲の存在。
 ここまで完全にファンタジーの世界で物語は進み、少なくとも私の頭の中では中世世界が広がっていました。しかし、猟師が鉄砲を持ちだした瞬間に、その前提がガラリと崩れます。
 話の流れとしては、むしろ弓矢、せめて弩を使ったほうが遥かに自然な気がしますが、グリムは、弓矢ではなく鉄砲という近代の道具を選びました。
 
 更に、猟師は眠っている狼の頬に鉄砲で狙いを付けながらも思い直し、あえて殺さずに、生かしたまま赤ずきんを助け出し、そして狼の腹に石を詰めるという、実にまだるっこしい殺し方をしています。
 何故グリムは「鉄砲で撃ち殺す」事を避けて、あえて「石で殺す」事を選んだのでしょうか?
 
 これは七匹の子ヤギでも同じ描写があり、そこからこの部分を引っ張ってきたようです。
 ちなみに、七匹の子ヤギにも赤ずきんに共通する興味深い小道具が登場しています。
 それは、柱時計です。
 脱進機を使った、いわゆるアナログ時計の機構そのものは一四世紀には登場していますが、しかし、やはりファンタジー世界に突然現れた「時計」と言う近代の道具に違和感を感じるのは自然だと思います。
 そして、最後の子ヤギはまさに柱時計によって狼をやり過ごし、そして、母親とともに兄弟を助けだしたのち、狼の腹に石を詰め、泉で溺死させるわけです。
 
 単なる類型の童話だと言えばそれまでですが、何故、わざわざそのような展開にしたのかが気になります。
 どちらの話においても、「鉄砲/柱時計」と言う近代の道具によって脅威が排除され、「石(あるいは水)/石および水」によって狼を殺しています。
 いったい、近代の道具とは、そして石や水とは、何の象徴なのでしょうか。
 
 これは私の想像ですが、近代の道具はずばり「キリスト教」を象徴しているのではないかと思います。
 グリムが赤ずきんを何年頃と想定していたかは定かではありませんが(そもそも想定しないのがメルヘンの条件です)、少なくとも、中世世界においてキリスト教とは、まさしく「最新の科学」であり、「最先端の知識」でした。
 人間社会のみならず、街の外に広がる脅威に満ちた世界をも、全て「創造主による被造物」として一元化し、あらゆる理不尽な運命を「神の御業」として解釈し、古代世界から「未知」という要素を追放したのが、「中世世界におけるキリスト教」です。
 そして、赤ずきんも子ヤギも、鉄砲や柱時計という、まさしく「最先端の科学」によって狼の脅威を排除しています。
 
 次に、石と水について考えます。
 やはり赤ずきんを読んで「うん? 石と水?」と思い当たるものがあって、本を取り出しパラパラとめくって、見つけました。
 ハインリッヒ・ハイネの「流刑の神々・精霊物語」のうち、精霊物語の一節です。
 一部を引用します。
 
――引用ここから――
 古代ドイツの法律のなかにはしかしたくさんの禁令もあった。すなわち川と木と石の近くで礼拝をしてはならないという禁令。これはある種の神性がそのなかに宿るという異教的迷信からくる。
 (中略)
 この三者、石と木そして川はゲルマンの信仰の主要動機である。それによって信仰は石のなかに住む存在、つまりこびとと交流し、木のなかに住む存在、つまりエルフェと交流し、水のなかに住む存在、つまりニクセと交流する。
 (中略)
 元素ごとのやりかたでは火に対して第四級の精霊、すなわちサラマンダーをあてることになる。
――引用ここまで――
 
 これを踏まえて赤ずきんや七匹の子ヤギを読むと、「石や水で殺す」ことが、途端にとても重い意味を帯びてきます。
 しかも、「鉄砲・柱時計=最先端の科学」によって狼の脅威を取り除いた上で、です。
 グリムは最先端の科学を持ち出しながらも、狼という悪魔に裁きを下すのは、あくまでも石や水を用いているのです。
 更に、赤ずきんの物語全体が「森の中」で展開すると言ったら、ややこじつけになるでしょうか。
 しかし、もしもここに三種類のゲルマン信仰の対象が隠れているとしたら、もうひとつ、大きな要素が現われるのです。
 森(木)と石と水は登場しましたが、もうひとつ、火はどこにあるのでしょうか?
 ここで、初めて「赤」ずきんに意味が出てきます。
 グリムがペロー童話から再構成した際に、ペローがかぶせた赤い頭巾を火の色に見立てたのではないでしょうか。
 となれば、赤ずきんの物語は、

①最先端の科学により悪魔の脅威を取り除き
②石と水によって悪に裁きを下し
③それらの物語は森の中で進行し
④物語の中心に「赤」ずきんが存在する
 
 このように読み取ることが出来ます。
 結論を言うと、グリムがこの話を再構成する時に考えていたのは、「キリスト教を立てつつも、古代ゲルマンの民間信仰を尊重する」と言う、異なる信仰の両立だったのではないかと想像できるわけです。
 
 こうなるとグリムの宗教観について気になってくるところですが、前回の講義で質問したところ、グリム兄弟は敬虔なプロテスタント派だったそうです。
 カトリック派だとしたら、この考察のような考え方は絶対にしない様な気がしますが、プロテスタント派はどうなのでしょうか。
 ちなみに、グリム童話のKHM200番以降に宗教色の強い物語が数多く登場すると教えていただいたので、いずれはそちらも読んで、グリムの宗教観について考えたいところです。
ハーメルン市で起きたことについて想像を巡らせてみる試みです。
まずは推測とかを抜きに、どうやら間違いないらしい史実のみを抜き出します。
エーフェルシュタイン家の足跡その1と被る部分が大きいです。

――――

◆1259年
神聖ローマ帝国のフルダ修道院が、既に手を離れてしまった(手に負えなくなってしまった)ハーメルン市の実権をミンデン司教区に売却したこと。

◆1260年
7月28日、ミンデン市教区がハーメルン市に宣戦布告したこと。
廃村ゼデミューンデで戦闘があり、ハーメルンの若者が大勢死んだこと。
その結果、ハーメルン市の最大勢力だったエーフェルシュタイン家が敗北したこと。
この戦闘の際にハーメルン市を守ろうとした若者(※)が大勢捕らえられ、皆殺しにされたこと。
9月13日、ハーメルン市の実権を、ミンデン司教区とヴェルフェン家率いるブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国とで折半すると言う取り決めが交わされたこと。

◆1277年
ハーメルン市のボニファティウス律院とヴェルフェン家との間でハーメルン市の権益に関する取り決めが交わされている(実質的に街の支配権をヴェルフェン家が乗っ取った)こと。

◆1284年6月26日
ハーメルン市の子供たち130人が、笛吹き男に連れられ失踪したこと。

――――

※「若者」に関する考察
若者と言いますが、年齢に関する正確な記録は(少なくとも手元には)ありません。
あえて言うのであれば、当時の常識としては子供・若者という概念はあまり無く、基本的に6歳を超えたら大人と同じ扱いを受けていたようです。
逆に言えば、あえて「若者」という記述が残っている以上、「大人(一人前)未満」であり、かつ「6歳以上」であった事が読み取れます。
つまり、農家の子供や職人の徒弟などが戦闘に参加したと推測できるわけです。

となれば、大人は戦わなかったのか? と言う素朴な疑問が当然湧きます。
もちろん戦ったでしょう。ヴェルフェン家の軍隊に対して子供だけでは戦闘にならないことは明白です。
梅原猛流の解釈をすると、わざわざこのような「子供が戦った」と言う記録が残されているという事は「それが歴史的に特殊なことであった」という表れと言えます。
何故ならば、戦争で大人が死ぬのは「当たり前だから」です。
「若者が戦い、死んだ」という記述は、もちろん大人も大勢死んでおり、その上で「大勢の子供も戦いに参加し、死んだ」つまり「特筆すべき痛ましい事件だった」と解釈すべきと思います。

――――

象徴的な出来事のみを列挙すると、これくらいでしょうか。
興味深いのは1260年のゼデミューンデの戦いです。
「この歴史こそがハーメルンの失踪事件の真相であり、笛吹き男とは軍隊の先頭を行くラッパ吹きだった」
このような説がドイツでは近代まで有力視されていたそうで、ドイツ政府が国民に民族意識を鼓舞する為にこの伝説を利用していたようです。
しかし、多くの古文書が失踪事件は1284年6月26日に発生したと記録しており、また1260年~1284年の間にもハーメルン市には政治的に多くの変化があったため、この24年の差を「誤差」として済ませるには無理がありすぎると指摘されています。
しかし同時に、「1260年7月28日に戦闘開始、ゼデミューンデにてハーメルン市の多くの若者が命を落としたこと」は、間違いない事実のようです。

――――

さて、ここからは想像の話になります。

1260年に多くの若者が死んだことは事実。
1284年に130人の子供たちが失踪したことも事実。
つまり、1260年の戦争による犠牲のわずか24年後に、ハーメルン市は「二度目の子供たちの消失」を体験していることになります。
24年。当時の感覚では、1260年の戦いを生き延びた市民がヴェルフェン家の支配の元で新たな子供を作り、その子供が大人になり子供を生むのに充分な時間と言えましょう。
(重ねて言いますが、当時は6歳を超えると大人と同じ扱いです。特に隷農や乞食など、ツンフトに縛られない者たちは、身体的に可能になり次第子供を作ることが出来たはずです。仮に(現代日本的な常識を無理やり当てはめて)18歳で子供を作ったとしても、1284年には6歳になっている計算になります)
つまり、1284年に失踪したのは、「生き延びた市民の孫世代」と言うことになります。

同時に、戦争でハーメルン市を勝ち取ったヴェルフェン家ですが、当初はその権益をミンデン司教区とヴェルフェン家で折半しています。
実質的にはヴェルフェン家は1277年にようやくその権益の大半を手に入れてるわけで、「ハーメルン市を完全に掌握するのに手こずった」と言う印象を受けます。
ここに、旧エーフェルシュタイン家を支持しゼデミューンデで子供を失った市民とヴェルフェン家の間に、極めて深刻な対立関係があったことが推測されるわけです。
そして、その軸線上に1284年の子供たちの失踪があります。
時期的には、「戦争で勝利し、実権を掌握し、あとは市民を黙らせるだけ」こんな状況を想像することが出来るのです。

結論を言うと、「ハーメルンの子供たちの失踪事件」は、「ヴェルフェン家によるハーメルン市掌握のための工作の一環」だったのではないかと、私は推測します。
ただ、他の要素として、この時期は東ヨーロッパへの植民が盛んに行われた時期と一致するのも事実で、東欧植民説を否定する材料もありません。
(現に東プロイセン(現在のリトアニア付近)に酷似した伝説を語り継ぐ村があり、これがハーメルンの子供たちの子孫だという説もある。この考察の大前提となっている阿部謹也氏が研究を始めたきっかけのエピソードでもある)

あるいは、この辺りもごちゃまぜにして考えたほうが良いのかも知れません。
植民請負人(これが笛吹き男の正体だとする説も有力)なる者の存在もちらついており、その語感からは、東欧への植民が大きな利益をもたらす事業であった事が伺えます。
ヴェルフェン家が率先してこのような事業を行なっていたとしても、何ら不思議はありません。
敗北して尚もエーフェルシュタイン家を支持する言わば「残党」の子供たちを人質兼奴隷にする形で東の地方へ連れ去った、なんて説はどうでしょう。

なんか、ヴェルフェン家の子孫の方が読んだら怒られそうですね。
怒られませんように……。
「ハーメルンの笛吹き男」に深く関わってくるエーフェルシュタイン家という家柄について手元にある文献とwikiを中心にまとめてみる試みです。
エーフェルはEverのドイツ語読み(で、いいのでしょうか?)、シュタイン(Stein)は英語でのStone、「永遠の岩」とでも訳すのが正しいのでしょうか。



当時のエーフェルシュタイン家を取り巻く状況

1180年、当時の神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ・バルバロッサ赤髭公が、かねてより対立していた従兄弟のハインリヒ獅子公に勝利し、ドイツ北部の公領を奪取。
この戦いで赤髭公に組みしていたのがエーフェルシュタイン家、獅子公に組みしていたのがヴェルフェン家という構図がある。
赤髭公が勝利した際に、エーフェルシュタイン家はヴェーゼル川沿いに建設されつつあったハーメルン市の知行権を与えられる。

また、この頃のエーフェルシュタイン家は周辺の各地に多くの城を持ち、それぞれで獅子公に与するホンブルク家、シュピーゲルベルク家等と抗争を続けていた。
ハーメルン市におけるエーフェルシュタイン家とヴェルフェン家の抗争は、この地方全体で勃発していた赤髭公と獅子公の戦いの一幕であったことが伺える。
特にハーメルン市はヴェーゼル川にかかった橋梁(それもかなり軍事色の強い)を中枢としているので、川の西への進出を目論んでいたヴェルフェン家にとっては喉から手が出るほど欲しい街だったと言える。

ハーメルン市は管轄司教区であるフルダ修道院から事実上の独立をしており、エーフェルシュタイン家はそれを全面的に援助する構図になっていた。
市参事会、市民、エーフェルシュタイン家は完全な協力関係となり、ハーメルン市のボニファティウス律院の院長もエーフェルシュタイン家から選出するなど、完全にフルダ修道院の手を離れていく。

1259年、ハーメルン市の権益確保が不可能と判断したフルダ修道院は市の知行権を無断でミンデン司教区に売却。ミンデン司教区がハーメルン市の権益を主張したためにエーフェルシュタイン家率いるハーメルン市との抗争が勃発する。

1260年
7月28日、廃村ゼデミューンデの戦いにおいて、エーフェルシュタイン家率いるハーメルン市の若者たちが全面的敗北を喫する。
(資料には「若者たち」とあるが、恐らくこの戦い以前に事実上の決着は付いており、戦える者は子供しか残っておらず、殆ど自殺(殉死?)行為の戦闘に及んだと考えるのが妥当だと思う。詳細はそのうち)
9月13日、突然、ハーメルン市の知行権をミンデン司教区とヴェルフェン家が折半するとの告知が行われる。この間にどのような交渉があったのかは謎。
ヴェルフェン家に残っている資料には「エーフェルシュタイン家に助けを求められたので(対ミンデン戦に)加勢した」とあるそうだが、結果から見れば、それが勝者による捏造であることは火を見るよりも明らかである。

1271~1272年、北ドイツを飢饉が襲う。当時としては飢饉は珍しくはないが、このタイミングでハーメルン市を襲った飢饉が街の勢力の力関係にどのような影響をもたらしたかは興味深い。
飢饉はその度に深刻な食料の高騰を引き起こし、貧富格差の増大を招いた。
恐らくハーメルン市の多くの住民は、この飢饉を決定打としてヴェルフェン家の傘下に収まることを余儀なくされたであろう。

1277年、ヴェルフェン家がハーメルン市における権益をほぼ全面的に掌握。これによってハーメルン市は名実ともにヴェルフェン家に制圧された。
一連の戦い以降、エーフェルシュタイン家の影響力は急速に衰え、歴史の表舞台から姿を消すこととなる。



概ねこんな感じでしょうか。
とりあえず、阿部謹也氏の著書「ハーメルンの笛吹き男」にて解説されているエーフェルシュタイン家の拠点について、現在の位置とその概要についてまとめてみました。

・ハーメルン
・ポレ
・ユェルツェン
・オーゼン
・グローンデ
・ホルツミンデン
・アエルツェン(著書には書かれてはいませんが、関わりが深いようです)
・シュタットオルデンドルフ(同上)



ハーメルン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハーメルン

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有名な物語「ハーメルンの笛吹き男」の舞台。
エーフェルシュタイン家とその宿敵ヴェルフェン家の抗争の中心となった。
ヴェーゼル川にかかる橋、そのすぐ横に作られたボニファティウス律院を中枢として発展した街である。
街の紋章に石臼を持ち、粉挽きがこの街の大きな産業であったこと、またその粉挽きを必要とする小麦などの穀物が豊富な土地であったことも伺える。

ちなみに当時の「粉挽き」と言う職業は、賤民視されつつも数多くの特権を持っている、極めて特殊な職業であった。
ゆえに粉挽き小屋(=水車小屋)が複数立ち並ぶ風景とは、当時の常識に当てはめると、かなり異様なものであったと思われる。
粉挽きが賤民視された理由は大きく分けて二つある。
一つは、小麦を粉にすると確実に量が減るため、泥棒のように思われていた事。
もう一つは、「水」と言う自然の力を操る「異能力者」だからである。
ハイネの解釈に照らし合わせると、キリスト教の普及により水の精霊ニクセはトイフェル(悪魔)の一種に位置づけられ、水力を利用する粉挽きは「どうやらトイフェルと契約しているらしい怪しげな人物」であった事になる。

同時に当時の領主は粉挽きに特権を与え、一般人が各自で勝手に粉を挽くことを禁じていた。粉挽きは挽いた粉の一部を取り分とし、かなりの財産を蓄える者もいたと言う。
賤民視つまり村八分のような状況に陥っても困らない立場であり、かつ一般人が無視し通すこともできないと言う、極めて特殊な立ち位置に居たのが粉挽きなのである。
推測だが「粉挽き」になることができたのは、支配階級の関係者(城を相続できない次男、三男など)だったのではないだろうか。
いずれにせよ、彼らが「水車使用強制権(バナリテとも呼ばれる)」なる奇妙な特権を持っていた事は事実である。
中世世界の一般人にとって、水車小屋とは「トイフェルの気配を漂わせつつも、誰もその権利を侵害することの出来ない、この世ならざる領域」だった。公権力の及ばないアジール(聖域、日本的に言えば駆け込み寺)としての性質があった事も記録されている。

以上を踏まえると、当時の小規模都市において「水車小屋が立ち並ぶ風景」と言うものが、どれほど異質なものであったかは、想像に難くない。
後述するが、すぐ南に位置するオーゼンおよびグローンデ(現在のエンマータール)周辺が「城の乱立地帯」であった事も、この異質な風景を説明する鍵になっているとも考えられる。
追記:4つほどの城がある程度では「乱立地帯」とはいえないそうです。ただし、軍事橋梁の存在や穀倉地帯の中心地であるために、周囲の城や諸侯が影響を及ぼそうと介入していた可能性は非常に高いようです。

そして粉挽き小屋の最大の敵は、言うまでもなくネズミである。
ネズミ退治の報酬を支払われなかった報復に大勢の子供を連れ去った「ハーメルンの笛吹き男」の伝説は、このような土壌で生まれたのである。



ポレ
http://ja.wikipedia.org/wiki/ポレ

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有名な童話「シンデレラ」の発祥の地として知られる街である。(とは言え、シンデレラ自体フランスのペロー童話を元に作られているらしいので、後付け設定である可能性が高い)
エーフェルシュタイン伯の城跡が残っており、wikiによればここにあるポレ城こそがエーフェルシュタイン伯の本拠地だったとある(恐らく街の広報がソースと思われる)が、エーフェルシュタイン城として文献に載ったのが1285年(エーフェルシュタイン家が既に没落している時期)であり、不自然さを感じる。
エーフェルシュタイン城のwiki(後述)によれば、エーフェルシュタイン城はここではなく、ポレ城より東南東10キロ地点にあったとする説が有力な模様。



ユェルツェン
http://en.wikipedia.org/wiki/Uelzen

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検索しても「ユルツェン」しかヒットしないが、綴りが「Uelzen」であることから、ここを指していると思われる。
しかし、疑問点としてエーフェルシュタイン家の本拠地からあまりにも遠すぎる事が上げられる。
wikiを見てもエーフェルシュタイン家に関する記述は見られない。またこの町の設立は1277年となっており、この時期はエーフェルシュタイン家の没落期に該当する。
この時期のエーフェルシュタイン家に、新しい街を作る力があったとは到底考えられない。
地理的にはむしろ宿敵ヴェルフェン家の拠点であるハノーファー市やブラウンシュヴァイク市に近い。

更に、こことハーメルン市以外のエーフェルシュタイン家の拠点となった都市の紋章には、必ずといって良いほどエーフェルシュタイン家の紋章である「冠獅子」の図案が入っているが、ここユェルツェンの獅子に関しては「冠」を頂いていない。
この図案はむしろ宿敵ヴェルフェン家の拠点の一つブラウンシュヴァイク市の紋章に近いと言える。
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/ブラウンシュヴァイク
素人考えではあるが、エーフェルシュタインに縁の強い「アエルツェン」という街(後述)があるので、大元となった資料(恐らくラテン語で記述されているもの)にて混同されていた可能性を考慮するべきか。
あるいは、かつてこの名で呼ばれた町が他にもあったと言う可能性も考えられる。



オーゼンおよびグローンデ
http://ja.wikipedia.org/wiki/エンマータール

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現在の「エンマータール」の旧名にそれぞれの名が見受けられる。
エーフェルシュタイン城の直轄地のような位置づけで、没落期にはホムブルク家との抗争の舞台でもあった。
オーゼンやグローンデは統合される前の土地の名前で、それぞれにエーフェルシュタイン家の城があった模様。
他にもヘーメルシェンブルク(これも古い地名)城などの記録があり、城の密集地帯だったことが伺える。
現代日本の感覚で言うならば、エーフェルシュタイン城を東京駅とすると、エンマータールは新宿の超高層ビル群のような位置付けだった事が想像できる。
となると、ハーメルン市はオーゼン城やグローンデ城の第二の城下町(構造的に軍事城砦では無いので、直轄の経済都市)のような関係にあったのではないだろうか。
城が沢山あるということは、その城を相続できない次男、三男も城の数に比例して居たと言うことでもあり、彼らが周辺の都市にて特権を持つ職業に就いた事も自然と言える。
追記:ハーメルン周辺は決して城の乱立地帯とはいえないようですが、しかし城を相続できない次男・三男の存在は紛れもない事実です。よって、この部分はまだ否定はしないでおきます。

阿部謹也によれば、中世貴族の次男、三男は婿入り先を探して遍歴騎士となることが多かったようだ。
しかし、少なくともこの時期に限って言えば、北ドイツでは赤髭公と獅子公の戦いが激化していた。戦争の真っ只中を命の危険を犯して遍歴するよりも、ハーメルン市のような受け皿となる都市に落ち着く方が現実的だったのではないかと想像する。
こう考えれば、前述した「ハーメルン市の異質な風景」を説明することが出来るのではないだろうか。



ホルツミンデン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホルツミンデン

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wikiによれば、「おそらく1197年から1202年までの間にエーファーシュタイン伯の市場町・関税所として nova plantatio(新しい町)が建設された」とされる、ハーメルンと並ぶエーフェルシュタイン家によって作られた街といえる。
1408年にヴェルフェン家およびホムブルグ家と戦った記録があり、この地ではかなり後期までエーフェルシュタイン家は持ちこたえていたことがうかがえる。



アエルツェン
http://ja.wikipedia.org/wiki/アエルツェン

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エーフェルシュタインの別の呼び名「エーファーシュタイン家」で検索するとヒットする街。
エーフェルシュタイン家と関わりが強く、直轄地であった時期もあった模様。
wikiによれば、ヴェルフェン家ブラウンシュヴァイク公に押され、没落しつつあるエーフェルシュタイン家が助けを求め、隠居先としていた街らしい。
1408年ヴェルフェン家との婚姻関係を結んでおり、これを持って事実上完全に吸収されたと見るべきか。



シュタットオルデンドルフ
http://ja.wikipedia.org/wiki/シュタットオルデンドルフ

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かつてのエーフェルシュタインの本拠地、エーフェルシュタイン城があった場所。
著書には「エーフェルシュタイン城」とのみ書かれており、それがどの土地に存在していたのかが書かれていなかったため、地道に探した。
各都市のドイツ語wikiを調べ直したところ、アエルツェンにて、なんとズバリ「Burg Everstein(エーフェルシュタイン城)」のリンクを発見。
Burg Everstein:http://de.wikipedia.org/wiki/Burg_Everstein
ここに掲載されている地図の座標から割り出す事で、現在のシュタットオルデンドルフの西の森に存在していた事が判明。(正確には、地図上のネーゲンボルンの南西、アルホルツェンの北西にあったらしい)
街の北にホムブルク城跡という史跡があるが、こちらはエーフェルシュタインとは関係ない模様。



既に触れていることですが、それぞれのwikiに掲載されている町の紋章を見ると、ユェルツェンを除く全ての町においてエーフェルシュタイン家の紋章である「冠獅子」が意匠されている事が判ります。
何故か肝心のハーメルン市に関してはこの限りではありません。ハーメルン市はエーフェルシュタイン家とヴェルフェン家の抗争の大きな舞台だったことと関係があるのかも知れません。非常に興味深いところです。

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