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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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今日の講義は、マックス・リューティというグリムに関する研究をした学者についての考察でした。
マックス・リューティはその代表著書である「物語の解釈」によって一時期はグリム解釈についての第一人者だったそうですが、現在では解釈の強引さや若干の矛盾などの指摘も多くされており、グリム解釈の材料として講義では扱われました。
マックス・リューティは「いばら姫」を題材に次のような考察をしています。
――抜粋ここから――
この話の核心は何か? この話には何が述べられているのか? ヤーコップとヴィルヘルム(グリム兄弟)は、この昔話を古い神話の欠片と見なし、人生と世界に対する太古の直感的な見方がかわいらしい姿で残ったもの、と考えた。
(中略)
この昔話は死と復活を物語っているのだ。
(中略)
人間を取り巻く自然界の出来事ばかりでなく、人間の心の中の出来事もあらわされている。いばら姫は十五歳のときに魔法にかかるが、十五歳というのは子供から乙女への過渡期にあたる。大きな発展の境目に立ったり、人生のある段階から別の段階へ移っていくときには、人は決まって危険にさらされるような気がする。
――抜粋ここまで――
情緒的な文章が多いので大幅に省略していますが、だいたいこのような論調です。
これを否定するほど私も熟読を重ねたわけではありませんが、ある程度は違う見方をすることはできます。
上記の抜粋を読んで、私がまず最初に想像したこと。かなり多くの人が同じものを想像したのではないかと思いますが、それは四コマ漫画です。
マックス・リューティの主張とはかいつまんで言えば「いばら姫とは起承転結をもって自然の摂理を訴えている物語である」と読み取れるのです。
それは一つの見方として正しいですが、しかし大きな弱点を持ちます。この理屈ならば「起承転結」をもって構成されるすべての物語について同じことが言えるのです。
マックス・リューティの活動していた頃に比べ、私達が生活する現代社会は、それこそ物語に溢れ、小説にも漫画にも事欠きません。
それらを作成する過程で「起承転結」なる構成は完全にメソッド化され、言ってみれば「物語を作る際の常識中の常識」と化しています。私も子供の頃、「四コマ漫画の書き方」などの本で読んだ記憶があります。
このような状況の中で現代の多くの人がマックス・リューティの著書だけでは物足りなく感じるのは、ある意味当然なのかも知れません。
そもそも、マックス・リューティの時代にはメソッドどころか「起承転結」なる言葉自体が存在していなかったのですから、グリム童話の中にこの構造を見出したマックス・リューティの眼識は、当時としては極めて先進的だったと評価すべきでしょう。
私は、グリムを解釈する際には、アウトラインや全体の構成ではなく、あえてディティールの部分に徹底的に注目したいと考えています。
マックス・リューティの著書の中に「昔話に出てくる人物は、個人として描かれてはいない。昔話には個々人の運命は描かれていない」とあります。
その通りです。だからこそ、基本的に「ディティールを書かない」はずのグリムが「あえて書いたディティールの部分」には、何かしらの意図が隠されているのではないかと思うわけです。
例えば、いばら姫に死の宣告をした魔女は「姫は十五の歳に紡錘(つむ)に刺されて死ぬがよい」と叫びます。
ものすごく素朴な疑問ですが、なぜ物語のこのタイミングで突然、「紡錘」なるアイテムが登場したのでしょうか?
ここまでの「ディティールを書かない」グリムであれば、「姫は十五の歳に死ぬがよい」と書いたほうが自然です。しかし、あえて「紡錘」というアイテムを、それも「唐突に」登場させました。
一応、お話の流れとしては「王様が国中の紡錘を燃やしてしまった結果、紡錘を知らないお姫様はかえって興味をそそられて紡錘に触れてしまう」という展開へと繋がります。
しかし、この展開にするためならば、紡錘である必要はありません。白雪姫のように櫛でも林檎でも、なんでも良いはずです。(むしろ、話の流れとしては林檎のような食べ物のほうが「お姫様が興味をそそられる」ような展開としては自然に感じます)
グリム童話を素朴な目線で読んでいくと「赤ずきんにおける鉄砲」「七匹の子ヤギにおける柱時計」「ねずの木(柏槇)の話における鬱」など、「うん? なんでまた突然?」「これって昔話じゃなかったの?」と思うような表現にものすごく頻繁に出くわします。
このようなところを、「あえて」深く突っ込むことで、思わぬ背景や、思わぬ意図が見えてくるように思えるわけです。
ちなみに先ほどの答えを言うと、「紡錘」とは日本語訳された単語で、原文では「糸巻き(スピンドル)」のような言葉で表現されており、「糸車」を指しているとも解釈できるそうです。
いずれにせよ、「糸紡ぎ」であることには間違いなく、そしてドイツの民話では糸紡ぎといえば「魔法」や「運命を司る道具」として扱われることが多いのです。(北欧神話の影響でしょう)
グリム童話の中でも特に長編においては、複数の民話をミックスしたものが多くみられ、いばら姫もその例に漏れません。
この紡錘という「運命を司る道具」をもって、まさしく姫の運命を予言した魔女は、北欧神話における「運命を司る三人の魔女(彼女らも糸紡ぎを使って運命を操ります)」か、それに類するものが原型になっていることは間違い無いと思われます。
北欧神話を聞いて育った子どもたちならば、「紡錘」というキーワードによって、「絶対に避けられない運命的なもの」を感じたことでしょう。
つまり、ここにおける「紡錘」とは、「魔女の力がいかに強いかを示すための小道具」であったと解釈することができます。
では、なぜ魔女の力の強さを表現する際に「北欧神話に連なる紡錘というアイテム」を登場させたのかということですが……。
ここまで引っ張っておいて申し訳ないのですが、私は一つグリムについて大きな推論を立てています。それを一連のグリム講座受講の総集編としてまとめたいと思っているので、その中で書いて行きたいと思います。
マックス・リューティはその代表著書である「物語の解釈」によって一時期はグリム解釈についての第一人者だったそうですが、現在では解釈の強引さや若干の矛盾などの指摘も多くされており、グリム解釈の材料として講義では扱われました。
マックス・リューティは「いばら姫」を題材に次のような考察をしています。
――抜粋ここから――
この話の核心は何か? この話には何が述べられているのか? ヤーコップとヴィルヘルム(グリム兄弟)は、この昔話を古い神話の欠片と見なし、人生と世界に対する太古の直感的な見方がかわいらしい姿で残ったもの、と考えた。
(中略)
この昔話は死と復活を物語っているのだ。
(中略)
人間を取り巻く自然界の出来事ばかりでなく、人間の心の中の出来事もあらわされている。いばら姫は十五歳のときに魔法にかかるが、十五歳というのは子供から乙女への過渡期にあたる。大きな発展の境目に立ったり、人生のある段階から別の段階へ移っていくときには、人は決まって危険にさらされるような気がする。
――抜粋ここまで――
情緒的な文章が多いので大幅に省略していますが、だいたいこのような論調です。
これを否定するほど私も熟読を重ねたわけではありませんが、ある程度は違う見方をすることはできます。
上記の抜粋を読んで、私がまず最初に想像したこと。かなり多くの人が同じものを想像したのではないかと思いますが、それは四コマ漫画です。
マックス・リューティの主張とはかいつまんで言えば「いばら姫とは起承転結をもって自然の摂理を訴えている物語である」と読み取れるのです。
それは一つの見方として正しいですが、しかし大きな弱点を持ちます。この理屈ならば「起承転結」をもって構成されるすべての物語について同じことが言えるのです。
マックス・リューティの活動していた頃に比べ、私達が生活する現代社会は、それこそ物語に溢れ、小説にも漫画にも事欠きません。
それらを作成する過程で「起承転結」なる構成は完全にメソッド化され、言ってみれば「物語を作る際の常識中の常識」と化しています。私も子供の頃、「四コマ漫画の書き方」などの本で読んだ記憶があります。
このような状況の中で現代の多くの人がマックス・リューティの著書だけでは物足りなく感じるのは、ある意味当然なのかも知れません。
そもそも、マックス・リューティの時代にはメソッドどころか「起承転結」なる言葉自体が存在していなかったのですから、グリム童話の中にこの構造を見出したマックス・リューティの眼識は、当時としては極めて先進的だったと評価すべきでしょう。
私は、グリムを解釈する際には、アウトラインや全体の構成ではなく、あえてディティールの部分に徹底的に注目したいと考えています。
マックス・リューティの著書の中に「昔話に出てくる人物は、個人として描かれてはいない。昔話には個々人の運命は描かれていない」とあります。
その通りです。だからこそ、基本的に「ディティールを書かない」はずのグリムが「あえて書いたディティールの部分」には、何かしらの意図が隠されているのではないかと思うわけです。
例えば、いばら姫に死の宣告をした魔女は「姫は十五の歳に紡錘(つむ)に刺されて死ぬがよい」と叫びます。
ものすごく素朴な疑問ですが、なぜ物語のこのタイミングで突然、「紡錘」なるアイテムが登場したのでしょうか?
ここまでの「ディティールを書かない」グリムであれば、「姫は十五の歳に死ぬがよい」と書いたほうが自然です。しかし、あえて「紡錘」というアイテムを、それも「唐突に」登場させました。
一応、お話の流れとしては「王様が国中の紡錘を燃やしてしまった結果、紡錘を知らないお姫様はかえって興味をそそられて紡錘に触れてしまう」という展開へと繋がります。
しかし、この展開にするためならば、紡錘である必要はありません。白雪姫のように櫛でも林檎でも、なんでも良いはずです。(むしろ、話の流れとしては林檎のような食べ物のほうが「お姫様が興味をそそられる」ような展開としては自然に感じます)
グリム童話を素朴な目線で読んでいくと「赤ずきんにおける鉄砲」「七匹の子ヤギにおける柱時計」「ねずの木(柏槇)の話における鬱」など、「うん? なんでまた突然?」「これって昔話じゃなかったの?」と思うような表現にものすごく頻繁に出くわします。
このようなところを、「あえて」深く突っ込むことで、思わぬ背景や、思わぬ意図が見えてくるように思えるわけです。
ちなみに先ほどの答えを言うと、「紡錘」とは日本語訳された単語で、原文では「糸巻き(スピンドル)」のような言葉で表現されており、「糸車」を指しているとも解釈できるそうです。
いずれにせよ、「糸紡ぎ」であることには間違いなく、そしてドイツの民話では糸紡ぎといえば「魔法」や「運命を司る道具」として扱われることが多いのです。(北欧神話の影響でしょう)
グリム童話の中でも特に長編においては、複数の民話をミックスしたものが多くみられ、いばら姫もその例に漏れません。
この紡錘という「運命を司る道具」をもって、まさしく姫の運命を予言した魔女は、北欧神話における「運命を司る三人の魔女(彼女らも糸紡ぎを使って運命を操ります)」か、それに類するものが原型になっていることは間違い無いと思われます。
北欧神話を聞いて育った子どもたちならば、「紡錘」というキーワードによって、「絶対に避けられない運命的なもの」を感じたことでしょう。
つまり、ここにおける「紡錘」とは、「魔女の力がいかに強いかを示すための小道具」であったと解釈することができます。
では、なぜ魔女の力の強さを表現する際に「北欧神話に連なる紡錘というアイテム」を登場させたのかということですが……。
ここまで引っ張っておいて申し訳ないのですが、私は一つグリムについて大きな推論を立てています。それを一連のグリム講座受講の総集編としてまとめたいと思っているので、その中で書いて行きたいと思います。
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プロフィール
HN:
凪茶(ニャギ茶)
性別:
男性
職業:
くたばり損ないの猫
趣味:
ドイツとイギリス
自己紹介:
ドイツ・イギリスを中心に中世ヨーロッパの生活習慣、民俗学などを勉強しています。
最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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