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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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疑問点をまとめています。
随時更新予定です。
長いために畳んであるので、右下の「Read more」をクリックしてください。
青字は進展のあったものです。
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小説関係(「小説家になろう」という小説投稿サイトをお借りしています)

ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~
笛吹き男に子供たちが連れ去られてから二十四年後、ハーメルンに暮らす靴屋の少年ネオが冒険と成長のなかで「ハーメルンの笛吹き男」事件の真相に迫っていくお話です。

アーサーの系譜 ~ブリュ物語~
アーサー王伝説の原型のひとつ、「Roman de Brut(ブリュ物語)」のうち、「Arthurian Chronicles(アーサーの系譜)」を翻訳し、読みやすく小説仕立てにしてあるものです。
現在進行形で翻訳中です。完結までには、もうしばらくかかるものと思われます。

アーサーの系譜 ~ブリュ物語~ 直訳
上記「アーサーの系譜」の直訳版です。
小説版では私独自の解釈などが盛り込まれているため、できるだけ原型に近いものを読みたい方は、こちらを併せてどうぞ。

ツイッター
考察やらをポツポツとやってます。
あと、翻訳ホヤホヤのブリュ物語のおおまかなあらすじを呟いてます。



作った資料
中世ドイツの単位
中世イギリスの単位
中世フランスの単位
中世ロシアの単位

ツイッターに投稿したあらすじのまとめです。
読みや内容について後になってから判明したものなど、ツイート時より少々変更が加えてあります。
なお、番号は英文におけるパートで、全体で120パートで構成されています。
ここではパート1~60までを紹介します。



ツイッターに投稿したあらすじのまとめです。
読みや内容について後になってから判明したものなど、ツイート時より少々変更が加えてあります。
なお、番号は英文におけるパートで、全体で120パートで構成されています。
ここではパート61~120を紹介します



ブリュ物語ばっかりだと脳みそがウニになってくるので、息抜きに好きな曲を日本語訳。
洋ゲーBorderlandsの主題歌、「Ain't No Rest For The Wicked」です。
今でもOPでこの曲流れるとテンション上がりますね。
Borderlands2のラストシーンの台詞がこのタイトルそのままで、とても印象的でした。
youtubeで聞けるので、興味があったら翻訳でも見ながらドゾ。



「Ain't No Rest For The Wicked(ロクデナシにゃ安息なんてないのさ)」
歌:Cage The Elephant

俺は道を歩いていたさ
そのとき目の片隅に、
可愛い子ちゃんがこっちに向かってくるのが見えたんだ
彼女は言ったさ「見たこともないね、
こんなに寂しそうな男は
ねえアンタ、少しばかり連れが欲しくないかい?
ちょいとばかし払うもん払ったら
きっと素敵な夜になるよ
アタシをお持ち帰りできるってわけさ」
俺は言ったさ、こんなに若くて可愛い子が
どうしてこんなことをしてるんだい?
彼女はじろりと俺を見て、そんでこう言ったのさ

[Chorus:]
はん、ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
金は木の上に実りゃしないし
札ビラも欲しけりゃ
食い物だっている
オマケにタダで手に入るものなんて、世界に一つもありゃしない
ゆっくりしてらんないし、
立ち止まるわけにも行かないのさ
望みが何かわかるだろ
ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
永遠に目を閉じるまでね

それから15分も経ってない頃
俺はまだ道を歩いていたさ
そのとき、目に入らないところから人影が忍び寄ってくるのに気づいたんだ
そんで、物陰から襲いかかってきやがった
そいつは俺の頭に銃を突きつけた
そりゃもう鮮やかな手並みで、撃つまでもないね
そいつは言ったさ、有り金全部よこしな
欲しいのは金で、アンタの命じゃない
でも、もしも動いたら俺は躊躇しないぞ
俺は言ったさ、全部もってけ
でも、その前に一つだけ聞かせてくれよ
どうしてアンタはこんな生活を?
奴はこう言ったのさ

[Chorus:]
はん、ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
金は木の上に実りゃしないし
札ビラも欲しけりゃ
食い物だっている
オマケにタダで手に入るものなんて、世界に一つもありゃしない
ゆっくりしてらんないし、
立ち止まるわけにも行かないのさ
望みが何かわかるだろ
ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
永遠に目を閉じるまでね

えーと、そんで2時間たった今、
俺は家で座ってたさ
日も暮れて今日も終わりだ
俺はテレビを付けたさ
ニュースにチャンネルを回すと
俺はわけのわからないものを見たんだ
そこには手錠をかけられた牧師が映ってた
なんでも、教会の金に手を付けたんだってさ
そいつは銀行にたんまり金を持ってるってのにだ
それなのに、いや、これ以上は言うまいさ
なぜって、俺にゃみんな同じだってわかってるからね
そうさ、俺たちゃスリルを求めてうろついてるのさ

[Chorus:]
知ってるよな、ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
金は木の上に実りゃしないし
俺たちゃ札ビラも欲しけりゃ
食い物だっている
オマケにタダで手に入るものなんて、世界に一つもありゃしない
俺たちゃゆっくりしてらんないし、
立ち止まるわけにも行かないのさ
俺たちの望みが何かわかるだろ
ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
永遠に目を閉じるまでね



ついでにBorderlandsシリーズはスチームで遊べます。(1はPC版だと英語のみですが)
ノリノリサイバーパンクなFPS&RPGで、こっちも超オススメです。
■獅子心王リチャード1世の憧れたアーサー王伝説

 現在翻訳中のブリュ物語について、少々解説をしてみます。
 1155年、フランスの詩人ワース(ウァースとも)によって書かれたこれは、一般的にはアーサー王伝説の原型のひとつとして知られている、詩歌の形で綴られたイギリスの偽史です。
 なにがどう偽史なのかを説明するためには、イギリスの歴史に触れる必要がありますので、少々お付き合いくださいませ。
 まず前提としてブリテン島の住民は次のように遷移しています。

 ・ケルトおよびガリア人(紀元前)
 ・ローマ帝国(1世紀)
 ・アングロ・サクソン人(現在の北ドイツからの居住者、4~6世紀)
 ・ノルマン人(ノルマンディー半島に住み着いたスカンジナビアおよびデンマークなどの北欧人、11世紀)

 この後、フランスと交わりプランタジネット朝の時代になり、民族・血統の面では現在に近い形が出来上がるわけです。
 さて、1136年、歴史学者ジェフリー・オブ・モンマスがブリテン王朝の歴史書を書いたのですが、そこでは前述したような民族・血統の遷移が完全に無視され、当時のブリテン人(つまりノルマン人)がそのままローマ帝国の末裔として、つまり歴史の始まりからブリテン島を統治していたかのように書かれたのです。
 当然ながら、4世紀~のアングロ・サクソン人の襲来などは、あたかも「我々(当然、この「我々」はノルマン人ということになります)の土地をサクソン人が襲った」と読み取れる形で書き記され、当時のブリテン民衆はこの歴史書を強く信じてしまいました。
 ブリュ物語もまた、この偽りの歴史にもとづいて書かれたために「偽史」と呼ばれているというわけです。

 では、偽史であるこれらの歴史書や詩歌にはなんの意味もないか、完全に嘘だけかというと、決してそんなことはありません。
 ジェフリー・オブ・モンマスは、自分たちの歴史書として書いたものの、しかしその内容や出来事に関しては、ブリテン島に古くから伝わる伝説や民話を中心に書いていたのです。
 つまり、「我々の祖先の物語である」という意味においては完全に偽史ですが、その一方で、「かつてブリテン島でなにがあったか」を知る意味では、これ以上ないほどに貴重な資料でもあるのです。
 そして、ジェフリー・オブ・モンマスの記した偽史「Historia Regum Britanniae(ブリタニア列王史)」こそが、現在我々が知るアーサー王伝説の原型というわけです。
 ※正確には、これ以前にもアーサーに関する伝説や民話はありましたが、それらはひとつにまとまっていないバラバラの状態でした。これに時系列を与えて一本の物語としてまとめたものがブリタニア列王史におけるアーサー王伝説なのです。

 さて、ここで少し話は飛びますが、1152年、とある結婚式が執り行われました。
 フランス王妃だったアキテーヌ領の女主人エレアノールが、フランス王ルイ7世との不仲の末に離婚し、イングランドの国王ヘンリー2世と再婚したのです。
 このエレアノールに関しても色々と逸話は多いのですが、あまりにも多いのでここでは割愛して、彼女がイングランドにもたらした変革について述べましょう。
 彼女が治めていたアキテーヌ領、つまり南フランスは、当時のヨーロッパ世界ではもっとも華やかで、もっとも宮廷文化の進んだ土地でした。温暖な気候に恵まれ、豊かだったために、潤沢な宮廷文化が育つ土壌があったわけです。
 そんな華やかな世界で生きてきたエレアノールが、突然バイキングの末裔の支配するイングランドに嫁いできたのですから、なんの苦労もないはずがありません。
 彼らの粗暴な文化に彼女はとても耐えられず、しかし、強い彼女はめげることもなく一念発起し、ある決意をしました。

「イングランド人に宮廷文化を叩き込もう」

 積極的に活動した結果、彼女の周りには詩人や芸術家が集まり、華やかな振る舞いや優雅なやりとりの文化がここで育くまれました。
 そんな中で彼女に献上された詩歌のひとつが、1155年、詩人ワースによる「Roman de Brut(ブリュ物語)」でした。
 ジェフリー・オブ・モンマスのブリタニア列王史はラテン語で書かれていたため、何度かロマンス語(当時のフランス語)に翻訳され、アレンジもされていました。
 その中でも宮廷文化に関する記述をふんだんに追加して、簡素な歴史書だったブリタニア列王史を、華やかな騎士物語へと昇華させたのがブリュ物語なのです。
 例えば、「円卓の騎士」はブリュ物語ではじめて登場したもので、ブリタニア列王史の時点では存在しません。
 同じように、更に後世になってから追加された要素も数多く、湖の騎士ランスロットや彼と王妃ギネヴィアの道ならぬ恋、パーシバルの聖杯探索などは、ブリュ物語の時点では登場していません。
 もう一つ加えますと、ブリュ物語には、アーサー王が死の間際にエクスカリバーを湖に返還するエピソードは存在しません。(このエピソードは15世紀に追加されたそうです)
 ブリュ物語においては、アーサー王亡き後のエクスカリバーの行方については語られず、よって、当時の人間は「エクスカリバーは、アーサー王とともにどこかに眠っている」と考えていたようです。これについては後述します。
 (この辺りの整理の必要性が生じ、翻訳を開始したという事情があります(笑))

――――――――

 エクスカリバーについて少々。
 王妃エレアノールの息子のひとり、獅子心王リチャード1世は、おそらく幼少の頃よりこの物語を読んで、騎士物語に目を輝かせていたのでしょう。
 彼は、自分の剣を「エクスカリバー」と呼び、周囲にもそのように呼ばせていたそうです。
 また、甥にも「アーサー」の名を付けてしまうほどの入れ込みようで、その傾倒ぶりが伺えるというものです。(ちなみに彼は男色家であったため、子供はいませんでした……)
 このリチャード1世のエクスカリバーですが、彼に関する歴史書のほとんどにおいて、まともに言及されていません。どうやら、夢見がちな若者の若気の至りとして見る向きが主流な模様で、取るに足らない事柄だと思われているようです。

 しかしその一方で、父親のヘンリー2世もまたアーサー王伝説の虜だったそうで、興味深い逸話を残しています。
 それによれば、彼はグラストンベリ修道院にあるというアーサー王の墓を、吟遊詩人の口伝を頼りに発掘し(あえて「暴き」という表現は避けておきましょう(笑))、見事エクスカリバーを探し当てたというのです。
 この言い伝えが本当かどうかは、今となっては知るすべもありません。
 ……しかし、恐らくボロボロに錆びていたであろう伝説の剣をヘンリーが再び打ち直し、それを息子リチャードに受け継がせたと考えたら……。
 あるいは、「リチャード1世のエクスカリバー」は、計り知れないほどの巨大な歴史浪漫を秘めているのかも知れません。
ロビン・フッドは実在したのでしょうか。それとも、架空のヒーローなのでしょうか。
 少なくとも「ロビン・フッドを名乗る人物」が13世紀イギリスに実在していたことは、紛れも無い史実です。
 しかし、その「自称ロビン・フッド」が、すなわちオリジナルのロビン・フッドであるかどうかは、確認するすべはありません。
 もしも彼がオリジナルでないのであれば、それ以前にオリジナルが存在したことになります。
 しかし、もしかしたら「自称ロビン・フッド」も架空の義賊にあこがれて、ロビン・フッドを名乗っていただけかも知れません。
 この研究はかなり大昔から行われており、現在では1228年の記録にまで遡ることが出来るようです。

 当時のイギリスにおいては、いわゆる英語の原型となったケルノウ語、ブレイス語、カムリー語が使われていましたが、これらは「話し言葉」のみで、「書き言葉」はすべてラテン語でした。
 そしてラテン語は教会に関わるものしか学習する機会は与えられなかったため、ロビン・フッドのような「義賊」「庶民の味方」、つまり「下賤の輩」に関することがラテン語で言及されることはほとんど皆無でした。
 このためロビン・フッドに関する史料は少なく、見つかったとしても貴族や王室関係者に限られていたのです。
 あるいは、ロビン・フッドについて「リチャード一世と関わりがあった」「盗賊王子」「礼儀正しい盗賊」などのように伝えられているのは、「身分が高い人物の名前でなければ、そもそも史料に残らない」というラテン語的事情によるものなのかも知れません。

 こういったロビン・フッド研究のなかで、史実に基づき実在を確認できる説はあまり多くはありません。
 現在手元にある資料本のなかでは、法律文化社の「ロビン・フッド 歴史学からのひとつの試み(ジョン・ベラミ著/鈴木利章・赤坂俊一訳)」が、出典を明らかにしている点でもっとも参考になるのですが、なにぶんにも翻訳本ということもあり、とても読みにくくて苦労しました。
 そのなかから、実在を確認できる説を中心に、当時作られた劇やバラードを交えて紹介していきます。



◆ロバート・フィッツウース(1160年頃)

 ジョセフ・リットソンが1795年に提唱した説です。
 ウイリアム・ステュクリが同時期に発表した「英国古文書学」の「ゲント家の系図」にこの名前があり、リットソンはロバート・フィッツウースこそがロビン・フットだと主張しました。
 彼の推測によれば、1160年生まれのハンティンドン伯であろうとされています。
 しかし、リットソンが参考にしたという家系図はステュクリによって手を加えられており、架空の人物が混入されていたことが、後に発覚しました。
 ステュクリの真意は計りようもありませんが、この脚色された家系図以外にロバート・フィッツウースの存在を示す史料が皆無であるため、この説の信憑性は薄いと言われています。



◆ロバート・ホッドまたはホッブ・ホッド(1230年頃)

 L・V・D・オーウェンが1950年に提唱した説です。
 現時点においては、実在していたことをはっきりと確認できる最古のロビン・フッドと言えます。
 1228年、1230年、1231年の脱走者にホッブホッドの名があり、またの名をロバート・ホッドと呼ばれていた、とあります。
 この人物に関する史料は多くはありませんが、「史実にロビン・フッドらしき名が現れるもっとも古い説」という点でその意義は大きく、少なくとも、彼がロビン・フッド本人であった可能性は充分にあると言えましょう。
 仮にそうでないのであれば、彼がその名前を借りたであろう「オリジナルのロビン・フッド」はこの時期よりも更に昔にいたということになるわけで、こうなると更に古い文献に基づく新説が発表されない限り、その実在を確かめることはほぼ不可能ということになります。



◆ロバンとマリオン(1276年)

 アダン・ド・ラ・アル作の牧歌劇です。
 農村などでジョングルールや吟遊詩人によって演じられたり、あるいは農民たちが演じたりしていた演劇で、町や村によって色々なバージョンがあったようです。
 1275年に作成、初公演は1276年とされています。
 ロバンとはフランス語における「ロビン」であり、マリオン(マリアン、あるいはマリア)はそのままロビン・フッドに登場するヒロインの名前です。
 牧歌劇の物語は次のようなものです。

 ・ロバンの恋人、羊飼いの娘マリオンが行きずりの騎士に口説かれるが、冷たくあしらう。
 ・騎士によってマリオンは連れ去られる。
 ・ロバンが仲間たちと騎士の館を取り囲み、降参した騎士はマリオンを解放する。
 ・貴族や王族に扮装した村人たちによる祭りが行われる。

 また、最後の祭りのシーンではロバンとマリオンが国王と王妃の扮装をして登場することが多かったと言われています。
 「ロバンとマリオンの恋人としての関係」、「騎士との対立」、「貴族や王族に対する反骨表現」など、ロビン・フッド活劇との共通点が数多く見受けられることがきわめて興味深く、これを「偶然の一致」として片付けることは難しいでしょう。
 ちなみにロビン・フッド関係で「マリオン」という名前が最初に現れるのは、この牧歌劇です。
 イギリスにおけるロビン・フッドの義賊としての評判がフランスに伝わり、アダン・ド・ラ・アルがそれを元にこの牧歌劇を作ったという可能性は、充分にあるのではないでしょうか。



◆ギルバート・オブ・フレッチング(ロビンホッド)(1296年頃)

 B・B・ドブソンおよびJ・テイラーが1976年に提唱した説です。
 正確には、J・C・ホルトが1960年に提唱した「13世紀説」を、具体例を出して補完したといった形になっています。
 1296年サセックス州の特別補助金簿にギルバート・オブ・フレッチングの名が登場し、彼は二つ名としてギルバート・ロビンホッドを名乗っていたそうです。
 しかし、この人物に関して残っているのは名前だけで、彼がいわゆるロビン・フッド的な、つまり盗賊や義賊として活動していたという記録は一切ありません。
 単に名乗っただけという可能性もありますし、あるいは本人の血縁者(子孫)だった可能性もあります。
 少なくとも、「1296年の時点では”英雄像としての”ロビン・フッドが一般に知られていた」という確かな証拠となることは間違いありません。



◆ロバート・フッド、ロビン・ホード(1324年頃)

 ジョセフ・ハンターが1852年に提唱し、その後多数の学者によって補足された説です。
 1324年4月~12月の御座所日録に国王エドワード二世の御座所の従者としてロバート・フッドの名が登場しており、ウェイクフィールドの荘園裁判記録にも記載されています。
 ステイントン家の血縁である可能性も指摘されており、ステイントン家の女性のひとりがカークリーズ女子修道院(=モンクブレトン修道院?)の院長だったことも確認されています。
 当時、トマス・オブ・ランカスタ伯が身分の低いものを支援したかどで罰を受けており、彼に同調していたモンクブレトン修道院も罰金を支払ったそうで、ハンターはこの修道院とステイトン家の関係にも注目し、この修道院が森の仲間(あるいはその支援者)になったという可能性を指摘しました。
 1323年6月5日~18日に「ロビン・ホード」なる人物が門番としての給料を受け取った記録があり、おそらくこれは上記ロバート・フッドと同一人物でしょう。
 年代的には前述のギルバート・オブ・フレッチングよりも更に後であるため、「ロビン・フッドの名が知られていた証拠」とするには目新しくはありませんが、同時期にロビン・フッドにまつわる他の登場人物らしき名前が散見されることが、この説を後押ししています。
 例を挙げると、1327年の裁判文書にてサー・リチャード・オブ・リーの名が登場しており、この人物こそサー・リチャードの原型と言われています。
 また、1323年~1324年にかけての宮廷の記録にリトル・ジョンの名が登場しており、この名もまたロビン・フッド活劇ではお馴染みの主要メンバーのひとりです。



◆ジェスト・オブ・ロビン・フッド(ロビン・フッドの冒険譚)(1400年代)

 15世紀前後に作られたとされるバラードで、作者は不明です。
 しかし、その完成度の高さから、単なる口伝や名も無き詩人の作ではなく、正式なパトロンを持ったトルバドールやミンストレルの手による作品であろうと言われています。
 現在のおよそ一般的な「ロビン・フッド活劇」の原型とされており、これ以降に発表されるロビン・フッドの多くにこの作品との共通点が認められます。
 特徴としては、以下の登場人物によって「ロビン・フッドとその仲間たち」というアウトラインが形成されております。

 ・リトル・ジョン
 ・スカロック
 ・粉挽きの息子マッチ
 ・サー・リチャード
 ・ノッティンガムの悪代官
 ・国王

 興味深いのが、このジェスト・オブ・ロビン・フッドにはマリアンは登場していないという点です。前述した「ロバンとマリオン」が後に作られるロビン・フッド活劇に盛り込まれ、今の形になったのかも知れません。
中世ヨーロッパで使用されていた単位を一覧表にまとめました。
覚書だけにしとくのは勿体無いので公開します。
ブログ形式だと表示が難しいため、別ページを設けました。

中世ドイツの単位
中世イギリスの単位
中世フランスの単位
中世ロシアの単位

間違いやお気づきの点などありましたら、コメントなどにてご一報いただければ助かります。

―2014年3月23日修正―
◆ドイツマイル・フレンチマルクの名称を削除。
文献には上記のように書いてあるのですが、国の名前として「ドイツ(ドイチュ)」という単語が現れるのは、15世紀以降です。
後世の視点で他の国との差別化を図るためにこのような記述がされたものと思われますが、「当時の生活で使われていた単位」という趣旨から外れてしまうので、表からは削除しました。
フランス王国という名は10世紀(フランク王国は5世紀)からあり、国をまたぐ行商人や傭兵などが「フレンチマルク」という単語を使っていた可能性は否定できません。
しかし、それを言い出すと、すべての同系列の単位に「フレンチ」だの「ブリティッシュ」だの付け加える必要が出てくるので、この表では削除しておきました。
◆クロイツァーとクラフテルを追加
原則的にドイツ語(および、その元になった各種ザクセン語)では「~er」は「~エル」の発音になりますが、地方や外国人による訛りも多かったようで、一概には言い切れないようです。
とりあえず、はっきり判ってる分だけでも書いていきたいところです。

■ロビン・フッド伝説

 ご存知、ロビン・フッド。かつて実在したと言われている中世イングランドの義賊です。
 このあたりを題材に書きたい話が浮かんできたので、関連書籍を読み漁って勉強しています。
 とにもかくにも、「ロビン・フッドに関して、知らないことはない」くらいのレベルを目指して行きたいところです。
 ある程度まとまり次第、更新していきます。



◆アウトローとはなにか? 
 
 ロビン・フッドのことを調べると必ず出てくるキーワードに「アウトロー」というものがあります。
 そのまま直訳すると「無法者」となり、ラッセル・クロウ主演の映画でもそのように翻訳されていました。
 しかし、この映画のラストでジョン王が宣言していた「ロビン・フッドを無法者とする!」という表現にイマイチしっくり来なかった人も多いのではないでしょうか。
 日本語で「無法者」というと、「乱暴者、チンピラ、愚連隊」のような意味合いで解釈されることが多いのが、その原因だと思われます。
 つまり、ジョン王はロビン・フッドを指して「あいつは悪いやつだ!」と喚いただけのように見えてしまい、「うん、それで? 悪口言っただけ?」みたいな拍子抜け感が漂ってしまったわけです。
 かと言って、翻訳が悪かったとは一概には言い切れません。なぜなら、やはり「アウトロー」には「無法者」以外に該当する言葉がないからです。
 問題は「無法者」という翻訳ではなく、「アウトローという言葉の持つ重み」にこそあるのです。
 
 実のところ、中世イングランドにおいて「アウトロー」という言葉は、現代日本人にとっての「無法者、チンピラ」とは比較にならないほど重い意味を持っていたのです。
 日本では「無法者」というと「法律を守らない者」という意味合いが強いと思われますが、中世イングランドにおいて「無法者」とは、「法律で守られない者」だったのです。
 実際問題として、中世イングランドにおける「アウトロー宣告」とは、最も重い刑罰のひとつでした。
 それはどのようなものかというと、文字通りに「法律で守ってもらえない」というもので、神聖ローマ帝国における「平和喪失刑」に近いといえます。
 具体的には、
 
 ・すべての街や村への出入りを禁止
 ・あらゆる取引を禁止
 ・アウトローとの取引に応じたものもアウトローと見なされる
 ・アウトロー発見の際には殺害を推奨
 
 このようなものでした。(ちなみに後ろの二つは神聖ローマ帝国の平和喪失刑ではあまり聞きません。この二点において、数段重い刑罰という印象を受けます)
 ようするに「死刑にしたいけど、逃げまわってるから殺せない」というだけの指名手配犯とでもいいましょうか、事実上の逃亡死刑囚と言い換えることもできます。
 アウトロー宣告とは、決して「チンピラの烙印を押される」というだけの軽いものではなく、それこそ死刑に匹敵する刑罰だったのです。
 
 これを踏まえて問題のシーンを見直すと、ジョン王は「ロビン・フッドは悪いやつだ!」と言ったのではなく、「ロビン・フッドを追放する! 見つけ次第処刑せよ! 奴に関わったものや助けたものも同罪とする!」と宣告していたことがわかると想います。


 
◆なぜアウトローがヒーローになったのか? 
 
 ロビン・フッド活劇の舞台は、一般的にはイングランド国王リチャード一世の時代とされています。(実際には諸説あります。次回以降のエントリで解説していきたいと思います)
 これが正しいかどうかは横に置いといて、今現在、我々が見ることのできるほとんどのロビン・フッド活劇において、なんらかの形でリチャード一世が登場しています。
 では、リチャード一世(在位1189年~1199年)の時代とは、どのような時代だったのでしょうか?

 当時のイングランドには、1066年にウイリアム征服王が規定した狩猟法という悪法があり、これにヨーマン階級(農奴と貴族の中間層、独立農夫とでもいいましょうか)が強く反発するという構図がありました。
 この狩猟法がどのように悪法なのかというと、一言でいえば「王の森の鹿や猪を狩ってはいけない」というだけの単純なものです。
 しかし、その効力は森から離れた場所にも及び、「王の森から出て畑に現れた鹿や猪」も狩猟禁止対象になったのです。
 この結果、なにが起きるかというと、
 
 「王の森から出て畑に現れた鹿や猪を狩ってはいけない」
   ↓
 「どの鹿や猪が王の森から出てきたのか判別不可能」
   ↓
 「事実上、すべての鹿と猪を狩れない」
   ↓
 「畑をどんなに荒らされても手を出せない」
   ↓
 「畑が全滅」
 
 このような状態になるわけです。
 日本の歴史で例えるのであれば、徳川綱吉の「生類憐れみの令」に近いでしょうか。

 畑を失ったヨーマンが生きるために密猟に手を染めることは、必然と言えましょう。そして、そのような密猟者に対して代官が下した刑罰こそが「アウトロー宣告」でした。
 畑を荒らす鹿や猪に悩まされ、しかし手を出すことも出来ずに歯軋りをしている農夫にとって、森に潜んで鹿や猪を狩るアウトローたちは、「害獣を駆除してくれる」「悪代官に敵対している」などの複数の意味でヒーローだったことでしょう。
 ロビン・フッドは常に「義賊」として描かれますが、これにはこのような背景があったのです。
 この悪法は、1215年にジョン王が調印を余儀なくされた大憲章マグナカルタで撤廃されることになりますが、ラッセル・クロウ主演のロビン・フッドはまさにこのマグナカルタに繋がる物語として描かれたというわけです。

半年に渡って続いたグリム講座もついに終わりました。
 今回、中世ドイツ民俗学の勉強の一環として参加した中央大学の公開講座でしたが、色々な点で収穫を得ることができました。
 また、講師の天沼先生にいただいた参考資料の数々は考察を深めるのに非常に役に立ち、これなくして勉強の継続は難しかったでしょう。
 ここで御礼申し上げた上で、グリムに関して私が立てた推論を述べさせていただき、グリム講座に関するエントリを一旦終わらせようと思います。
 


 さて、グリムです。
 何度も繰り返してきたことですが、総合的に見て、グリム童話には明らかに不自然な描写やアイテムが頻繁に登場します。
 そして、その「明らかに不自然な描写・アイテム」を見ると、ひとつの共通点があると私は思うのです。
 完全に精査したわけではないので断定的なことは言えませんが、それは私が見た印象では「キリスト教との距離感」として現れています。
 例えば、グリムはキリストに関連する数字「7」や「12」、他にも「神さまのお恵みによって」などの描写を好んで使い、それは作中にいたるところに見られますが、しかし、いざ「不自然な描写・アイテム」が出てくるとなると、途端にキリスト教の影が消え失せるのです。
 ねずの木の話でも、「鬱と鬱からの回復」に関して、キリスト教はまったく関係ありませんし、もしもここにキリスト教を意識するのであれば、「神様のお恵みによって元気が出た」と言ったほうが、より自然だと思います。
 赤ずきん、七匹の子ヤギにいたっては、既に述べた通り「銃や柱時計=近代文明(=キリスト教を暗示?詳細は赤ずきんのエントリを参照)」によって狼の脅威を排除したにもかかわらず、しかし「水と石」によって狼に裁きを下しています。これは、中世におけるキリスト教の立場で見たら、キリスト教どころか、むしろ異端信仰に近い行いと言えます。
 
 講義の中ではグリムの属していたロマン派について言及されました。
 ロマン派、日本語で短くまとめるのは難しいですが、講義に則るのであれば「懐古的理想主義」とでも言いましょうか、要するにナポレオンに蹂躙されたドイツを立て直す中で、古き良きゲルマン文化を保存しようという動きがあり、グリム童話はその一環として書かれたのです。
 その観点から見ても、「水や石」の中に古代ゲルマン信仰が隠されていることは疑いようのないところで、むしろこうなると「7」や「12」、「神さまのお恵み」などのキリスト教的要素が混入するほうが不自然な気さえしてきます。
 しかし、グリムはキリスト教を強く意識してグリム童話を書きました。特に、私がこだわるディティール部分ではなく、アウトラインにおいて非常に多くキリスト教を連想させる要素が見受けられます。
 率直に言って、「古き良きゲルマン文化を保存する」のであれば、キリスト教の描写は省いたほうが良いでのはないかとさえ感じます。
 では、なぜグリムはこのような異文化混合の童話を書いたのでしょうか。
 
 ここでひとつ別の資料を持ち出させていただきますが、グリムが活動していた少し後、ドイツでは面白い議論が巻き起こっていたそうです。
 菊池良生氏の「神聖ローマ帝国」より抜粋します。
 フリードリッヒ一世および二世の治世が終わり、シュタウフェン朝が終焉する前後のくだりです。
 
――引用ここから――
 そしてドイツには「聖界諸侯との協約」、「諸侯の利益のための協定」だけが残った。そのためドイツは唯一の最高権力者である皇帝により治められる帝国ではなく、諸侯が治める数多の領邦国家が構成する連邦国家と化したのである。
 これを見て十九世紀後半、ドイツ史学会で「皇帝政策論争」が巻き起こる。ドイツ分裂の遠因は皇帝のイタリア政策にありと批判する史家と、それを弁護する史家との間の論争である。
――引用ここまで――
 
 ここでいう「皇帝」とはフリードリッヒ一世および二世(あるいはそれ以前の皇帝も含むかも知れません)のことです。
 では、フリードリッヒ一世および二世がなにをしたのかと言うと、簡単に言うと、事実上の皇帝任命権を持つローマ教皇に戦いを挑み、その権限を剥奪しようとしました。
 要するに、ドイツ(神聖ローマ帝国)が分裂したのはフリードリッヒ一世および二世がローマ教皇に喧嘩を売りまくったのが原因であると。つまり、「皇帝がゲルマン統治で満足して、教会にちょっかい出さなければ、ドイツは分裂しなかった」という論争です。
 言い方を変えると、「ゲルマン王とキリスト教が喧嘩しなければ、ドイツはもっと速く統一できてたのでは。ナポレオンも追い返せたのでは」と読み取ることができます。
(もっとも、私はこの論には否定的です。なぜなら、当時の神聖ローマ帝国ではあらゆる諸侯が「誰かひとりが強くなりすぎる」状況を極端に恐れ、出る杭を総出で打ちまくっていたからです。出る杭(皇帝)を打つために昨日の敵(ローマ教皇)と手を結ぶのが当たり前で、皇帝がいたずらにローマ教皇との戦いを長引かせたのには、このような諸侯の思惑や暗躍が原因であったのは事実です。強いて言うなら、ドイツ分裂の遠因は、当時の諸侯全員が「俺以外が強くなりすぎるのは気に入らねえ」と思って足を引っ張り合っていたことだと思います)
 
 グリムに話を戻します。
 この論争が起きた頃にはグリム兄弟は晩年を迎えているわけですが(あるいはこの論争を見ることなくこの世を去ったかも知れません)、十九世紀後半に起きたというこの論争の根底にあるものと、グリム童話とが、ひとつの糸で結ばれるのがわかると思います。
 そろそろ結論を言います。
 ナポレオンが冬将軍に敗れて引き上げたあと、蹂躙され荒廃したドイツの土地で、グリムはなにを思ったでしょうか。童話を書く際に、子供になにを伝えたいと願ったのでしょうか。結果から見ると、やはり「ゲルマン文化とキリスト教の協調」だったと思います。
 「子供に読ませる読み物」として依頼を受けた際に、赤ずきんだけでなく、ほとんどすべての物語において「二度とゲルマン文化とキリスト教を対立させるまい」という意図が篭っていたのではないかと推測します。
 ゲルマン文化保存運動の中心ともいえるロマン派に属していながら、アウトラインにはキリスト教の影響を色濃く残している点。
 本人たちもプロテスタント派であり、キリスト教の影響を強く滲ませていながらも、決定的な部分ではゲルマン文化が顔を覗かせる点。
 当時のドイツでなにがあったのか、それよりも更に大昔のドイツでなにがあったのかを見ていくと、これらの矛盾は矛盾ではなく、融合と協調の産物であることが浮かび上がってくるのです。
 そして、まさにグリムを筆頭とするロマン派の論者たちのこのような主張が、後の皇帝政策論争へと発展していったのではないかと推測します。
 
 私としては、このあたりに「グリム童話200年の秘密」が眠っているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
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