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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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疑問点をまとめています。
随時更新予定です。
長いために畳んであるので、右下の「Read more」をクリックしてください。
青字は進展のあったものです。

14世紀初頭のハーメルン市における生活風景に関する質問

■人口
 人口は何人程度だったと考えるのが妥当でしょうか?

 阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き男」をつぶさに読みなおしたところ、以下のような記述を見つけました。

――引用ここから――
 ヴァンによると、当時ハーメルン市内にあった約六〇〇の屋敷地のうち二八五~二九三は大市民に、三〇八~三一三は小市民のものとなっていた。
 (中略)
 大市民の家は小市民のそれと比べてはるかに大きく、醸造権を持ち、この時代にすでにヴェーゼル地方ではめずらしい石造りであった。
 (中略)
 小市民の家はニーダーザクセン風の質素な木組み白壁造で、醸造権をもたなかった。
 (中略)
 大市民の家はプフェールデマルクトやそこから出ているベッカー通りやオスター通りに集まっていた。
 それと社会的な意味で対照的なのが南東のノイエ・マルクトのあたりであり、そこに小市民、手工業者層が主として住んでいた。土地不足や貧困の故に外部に移住する必要があったとすれば、そのような人間は間違いなくこの辺りに住んでいたのであり……
 (以下略)
――引用ここまで――

 当時の街並みの描写まであるのが非常に興味深いです。
 ヴァンとはハーメルンの笛吹き男の事件を東欧植民説として提唱した学者、ヴォルフガング・ヴァンのことで、一連の記述は14~15世紀にかけて書かれた「リューネブルク手書本」が出典となっている模様です。
 屋敷が大小あわせて600あったとして、そのそれぞれに3~10人(ザクセン建築の形状から、このくらいが妥当ではないかと推測します)が住んでいたとしたら、ハーメルン市の人口は1800~6000人(平均3900人)程度となり、恐らくこの範囲が現実的なところではないかと思われます。
 一世帯あたりの平均人口が判れば、更に正確な人口を推測することが可能になりそうです。



■暦に関すること
 当時のザクセン地方でもユリウス暦を使っていたと考えるのが妥当でしょうか?
 また、聖職者でない一般人が「現在は何年か」と言うような意識を持っていたと思われますか?
(つまり日常会話の中で「今年は1284年」などのように喋ることはあった?)

 中世ヨーロッパの都市の生活(J・ギース/F・ギース著)にて、1250年頃のフランスにおける金融業の記述にて、興味深いものを見つけました。

――引用ここから――
 当時の暦は混乱状態にあった。その主な原因は、新年がいつ始まるかについて異論が多かったことにあった。一月一日はローマの暦年の第一日目にあたり、ローマ法が再び脚光を浴びるようになったことでこの計算法を使うところも出てきた。それでも、一年の始まりを一月一日に置くのは一般的ではなかった。キリストの受難と復活が起こったとされている月を一年の最初とする地域もあったが、それもどこでもというわけでもなく、旅行者には頭の痛い問題となった。ヴェネチアでは三月一日が一年の始まりとして正式に祝われていた。一方、ピサでは受胎告知がおこなわれたと考えられる日、つまり紀元一世紀の前の三月二五日から年を数えはじめていた。フィレンチェでは、その一年後の三月二五日から年を数えていた。そのほかの地域では、一年は降誕祭か、復活祭から始まると考えられていた。
(中略)
 もっとも、旅人自身は暦の混乱に大きな不便を感じることはなかったはずだ。なぜなら当時の人は「年」で考えるのではなく、「月」や「日」そして、一番近い「聖人の祝日」を基準に考えていたからである。
――引用ここまで(313~314ページ、注釈より抜粋)――

 整理すると、

「新年の始まりは何月何日か」地域によって異なった
「今年が何年か」地域によって異なった
「今日が何月何日か」全地域共通だった
「聖人の祝日」全地域共通だった

 ……と言うことが読み取れます。
 また、文中の「ローマの暦年」がユリウス暦だとすると、これはあまり一般的ではなかったようなので、ハーメルン市がこれを採用していた可能性は低いと思われます。

 以上の事から推測すると、当時のハーメルン市の生活風景に「今年は1284年だ」というような会話があったとは考えにくいところです。
 仮にそのような会話があったとしても、恐らくほんの一部、教会や市参事会などの事務的な会話に限られていたのではないでしょうか。
 1284年と言う数字に関しては、後の(ユリウス暦、あるいは更に後のグレゴリオ暦で記述された)資料が根拠となったか、あるいは碑文などから「今から○○年前、つまり1284年に笛吹き男事件があった」のように逆算することで割り出されたと考えるのが妥当だと思われます。

 その一方で、日付に関しては「今日は6月26日だ」という会話があったことは充分に考えられ、同時に「今日はヨハネとパウロの日だ」のような表現をすることが非常に多かったことが想像できます。



■気候に関すること
 ハーメルン市は北緯52度と北海道よりも遥かに北に位置するが、気候はどのようなものだったでしょうか?
 印象通り夏は短く、冬が長く、日が短いため、晩課、終課の鐘は早く鳴ったと考えるべきでしょうか?
 服装についてはどのようなものを? 当時の一般的なスタイル(チュニック&タイツズボン)では寒いのではないかと思います。
 防寒具はどのようなものが主流だったのでしょうか?(毛皮or羊毛?) 同じく、ブーツも防寒靴などはあったと思われますか?

まずは、気候について調べてみました。
とりあえず、日本の温度と比較してみます。
気象庁(日本)による統計を探すと、次のようなデータが出てきます。

■東京(1981~2010)
・夏季(8月)
 最高気温:31.1 ℃
 最低気温:24.5 ℃
 平均気温:27.4 ℃

・冬季(1月)
 最高気温:9.9 ℃
 最低気温:2.5 ℃
 平均気温:6.1 ℃

■札幌(1981~2010)
・夏季(8月)
 最高気温:26.4 ℃
 最低気温:19.1 ℃
 平均気温:22.3 ℃

・冬季(1月)
 最高気温:-0.6 ℃
 最低気温:-7.0 ℃
 平均気温:-3.6 ℃


次に、ドイツの気象庁のHPからデータを引っ張ってきます。
ハーメルン市そのものはなかったので、比較的近いハノーバー市を参考にしました。
統計を取り始めたのが2006年以降らしく、それ以前のデータは見つかりませんでした。
とりあえず、生データはこんなかんじです。
※一箇所、2008年8月の最低気温が-55.5℃と言うありえない数字があったのですが、前後の数字から鑑みて、5.5℃の入力ミスだろうと勝手に判断しました。

月 / 年 : Min / Max(℃)
4 / 2006 : -1.4 / 24.6
5 / 2006 : 2.5 / 25.2
6 / 2006 : 3.8 / 30.3
7 / 2006 : 9.2 / 35.3
8 / 2006 : 8.4 / 26.2
9 / 2006 : 8.4 / 28.2
10 / 2006 : 3.2 / 21.5
11 / 2006 : -3.2 / 17.4
12 / 2006 : -4.8 / 15.6
1 / 2007 : -9.2 / 14.2
2 / 2007 : -4 / 12
3 / 2007 : -1.7 / 17.5
4 / 2007 : -1.9 / 26.2
5 / 2007 : 2.6 / 27.4
6 / 2007 : 9.9 / 29.6
7 / 2007 : 9.7 / 33.7
8 / 2007 : 5.8 / 28.5
9 / 2007 : 5.3 / 23.4
10 / 2007 : -2 / 17.7
11 / 2007 : -1.9 / 13.4
12 / 2007 : -7.3 / 13.3
1 / 2008 : -4.7 / 11.8
2 / 2008 : -6.8 / 13.7
3 / 2008 : -3.7 / 18.9
4 / 2008 : -2.5 / 19.8
5 / 2008 : 1.9 / 27.9
6 / 2008 : 5.9 / 29.4
7 / 2008 : 9.6 / 32.3
8 / 2008 : 5.5 / 30.8
9 / 2008 : 1.9 / 24.5
10 / 2008 : -0.2 / 19.7
11 / 2008 : -2.4 / 15.5
12 / 2008 : -10 / 9.4
1 / 2009 : -13.3 / 7.5
2 / 2009 : -7.3 / 9.8
3 / 2009 : -3.8 / 13.3
4 / 2009 : 0.2 / 23.6
5 / 2009 : 3.8 / 27.3
6 / 2009 : 4.8 / 28.7
7 / 2009 : 10.2 / 30.7
8 / 2009 : 8.9 / 35.1
9 / 2009 : 4.6 / 31
10 / 2009 : -1.1 / 21.7
11 / 2009 : 2.7 / 17
12 / 2009 : -19.5 / 10.9
1 / 2010 : -14.7 / 3.3
2 / 2010 : -11.8 / 12.5
3 / 2010 : -11.2 / 21.4
4 / 2010 : -1.7 / 23.8
5 / 2010 : 0.4 / 23
6 / 2010 : 6 / 28.9
7 / 2010 : 8.7 / 34.9
8 / 2010 : 6.2 / 28
9 / 2010 : 3.7 / 23.3
10 / 2010 : 0.2 / 21.2
11 / 2010 : -8.1 / 16.2
12 / 2010 : -12.4 / 6.4
1 / 2011 : -6.6 / 12.7
2 / 2011 : -9.7 / 11.2
3 / 2011 : -5.9 / 16.7
4 / 2011 : 0.2 / 24
5 / 2011 : -1.2 / 28.7
6 / 2011 : 4.5 / 30.8
7 / 2011 : 10 / 25.9
8 / 2011 : 9.1 / 31.2
9 / 2011 : 5.3 / 28.3
10 / 2011 : -0.8 / 26.4

ここから、ドイツの夏季(7月)と冬季(1月)のデータを抽出、平均値を取ることで、現時点におけるおおよその気温が見えてきます。

■ハノーバー(2006~2011)
・夏季(7月)
 最高気温:32.1 ℃
 最低気温:9.6 ℃
 平均気温:20.9 ℃

・冬季(1月)
 最高気温:9.9 ℃
 最低気温:-9.7 ℃
 平均気温:0.1 ℃


日本に比べると、夏は東京都と同程度、冬は北海道より寒いようですね。
季節を問わず、乾燥している分だけ寒暖の差は激しくなる印象です。
現在は温暖化により、地球全体の気温が2℃ほど上昇していると言われています。
また、グリム講座の天沼先生に紹介して頂いた本、「中世ヨーロッパの農村世界(堀越宏一著)」には、このような記述が見受けられます。

――引用ここから――
 アルプスの氷河は、寒冷で雨が多い気候条件のもとで、成長して里に向かって伸びてくるが(小氷河期)、逆に温暖で雨が少なければ後退する(間氷期)。チロル地方の氷河の先端部分周辺の地層の観察から、古代末期以降に三つの小氷河期があることが明らかにされた。まず五世紀初めから八世紀半ばにかけて、つぎに十二世紀半ばから十四世紀前半まで、そして十六世紀後半から十九世紀半ばにかけての三世紀間に氷河はとりわけ発達している。
(中略)
 けれども、このように十二世紀後半を境に気温が低下したといっても、それは一度をこえない程度だったようだ。
――引用ここまで――

順当に考えて、現在の気温から温暖化の分を2℃、更に小氷河期の分を1℃引けば、十四世紀初頭の気温が見えてくると思われます。

■ハノーバー(1300年頃、推定)
・夏季(7月)
 最高気温:29.1 ℃
 最低気温:6.6 ℃
 平均気温:17.9 ℃

・冬季(1月)
 最高気温:6.9 ℃
 最低気温:-12.7 ℃
 平均気温:-3.1 ℃


このような数字になりましたが、どうでしょうか。
夏は現代日本より若干涼しい程度、冬の夜はとんでもない寒さになっていた模様です。
阿部謹也の解説にて、ティル・オイレンシュピーゲルなどの遍歴職人や放浪者が冬に旅をせねばならぬ過酷さが語られていましたが、この数字から浮かび上がってくるようです。
また、「雪が溶けたら意地悪な親方の元を去って旅にでる」というような描写が多い点を生データと重ね合わせると、最低気温が零度を超える5月から9月の間が遍歴に適していたことを読み取ることができます。

晩課、終課の鐘については、情報が足りません。
仮に水時計を使用していたならば、冬季の夜には凍り付いて時刻を図る手段がほとんどなかったことになります。
しかし十四世紀初頭ならば、ぎりぎりで脱進機を利用した棒テンプ式機械時計が登場しています。周囲に城が最低でも四つ存在し、それぞれがハーメルン市における影響力を競い合っていたとすれば、それらの城や富豪からハーメルン市の聖ボニファティウス律院に最新式の時計が寄進されていたとしても、まったく不思議はありません。
棒テンプ式機械時計が存在したのであれば、晩課や終課の鐘を正確に鳴らすことができたと思われます。
ここらへんは、確かな情報が見つからない限りは想像しかできず、辛いところです。


次に、服装に関してまとめてみました。
最も有効な資料となったのは、やはり天沼先生に紹介して頂いた本「ドイツ中世の日常生活 騎士・農民・都市民(C・メクゼーパー、E・シュラウト編)」です。
少し長いですが、引用します。

――引用ここから――
手工業者の服装
普通の手工業者の服装は、日常的には大きな出費とはならなかったようである。裕福な人々の服は、毛織物か麻織物で、貧しい人々のものは、バルヘント織――麻と綿との混檻――とか綿織物であり、しばしば灰色のままか、あるいは西洋茜で青色に染められたり、鉱物性顔料で赤色や茶色に染められたりした。ときにはたとえばバーゼル特有の編み紐、フォーゲルシュルリッツのように、斑にプリント染めされたこともあった。皮革製品・ビロード・絹・高価な飾りなどを市民に禁じた衣服条例は、何よりもまず富裕なツンフト上層市民に向けられたものであった。とうてい富裕とはいえないような中間層的手工業者は、上着や下着を何着かもっていただけであり、祝日にはその中の最良のものを、また寒いときには羊の皮や毛糸で編んだものを身につけた。それに木や革の靴をはき、時には金の指輪をしたりと、ガラスとか地味な石がはめ込まれ金メッキされた真鍮製とか銀製のネックレスをしていたかもしれない。
――引用ここまで――

ほとんど不足なく書いてあるとおりですが、ハーメルン市を含む北ドイツに限定して考えると、いくつかの条件が絞れてきます。
まず、北緯52度のハーメルン市においては白夜とまでは行かずとも、それに準じる現象として、日の出と日の入りの時刻が日本とは大きく異なります。
これに関しては、天文系のHPにて計算してくれるところがあるので、これを利用してみます。
参考URL:http://star.gs/cgi-bin/scripts/hinodet.cgi

これで東京の日の出と日の入りを調べると、次のようになります。

◆東京
・夏季:2012年8月15日
 日の出 05:00
 日の入 18:31

・冬季:2012年1月15日
 日の出 06:22
 日の入 16:59


このHPの素晴しいところは、天体運動を元に計算してくれるので、14世紀初頭のハーメルン市をピンポイントで調べることが出来るのです。
早速入力してみると、次のような結果が出ました。

◆ハーメルン市:北緯52度6分、東経9度21分、UTC+1
・夏季:1308年7月15日
 日の出 04:28
 日の入 20:27

・冬季:1308年1月15日
 日の出 08:18
 日の入 16:54


※ちなみに2012年で調べると、1308年に比べて日の出が約8分早く、日の入りが約9分遅くなっており、この700年ほどの間に合計17分ほど日照時間が長くなっているようです。

こうして見ると、現代日本と比較して際立っているのは、「夏季の日の入りの遅さ」と「冬季の日の出の遅さ」です。

乾燥している分寒暖の差が激しいですが、夏季に関してはそれほどの不自由があったようには見えません。
ちなみに最も日照時間が長いのは6月10日前後で、前後およそ20分ずつ、合計40分ほど長かったようです。(2012年では6月16日前後にずれています)
冬季に関しては、なんといっても日の出が遅いために、氷も雪も溶けることなくいつまでも残っていたことが推測されます。
映画「RED RIDING HOOD(赤ずきん)」では雪に覆われた森の中の村が舞台になっていましたが、まさにあのような風景が日常的に見られたものと思われます。

いずれにせよ、毛糸で編んだ上着や、羊の皮を縫ったマントや手袋などが貧富を問わず防寒具として必需品であったことは疑いようもありません。
少々あやふやなまとめ方ではありますが、この辺りで一段落させておこうと思います。



■ユダヤ人、賤民観
 手元にある本ではハーメルン市におけるユダヤ人についての記述は見当たりませんが、ハーメルン市に定住ユダヤ人は居なかったのでしょうか? 居たとしても少数と考えるべきでしょうか?
 一方、フルダでは領主が金策に困った際、ユダヤ人に適当な罪を着せて財産を没収する事があったとの事ですが、ここから、

①領主が金策に困るのはどんな時か?
②通常あり得ない出費が発生している=戦争資金や飢饉への備蓄など
③飢饉が予想されると定住ユダヤ人が迫害される
④定住ユダヤ人の少ない都市(つまりハーメルン市など)で流入(あるいは放浪)ユダヤ人が目立つようになると、近いうちに飢饉が起きる

 ……と言う構図が想像できますが、これは妥当と言えますか?

 皮剥ぎ職人などの賤民とは同席してはいけない、関わってはいけない、などの触穢思想に近いものがあったようですが、それを守って生活すると、皮剥ぎ職人との取引が不可能になるのではないでしょうか?
 それらの現実的問題をどのように解決していたと思われますか?
 物々交換から貨幣へと流通が遷移していったのにはそれらの事情も関係していたと言う事は考えられますか?


■水車小屋
 ハーメルンの語源となった「ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ」は「水車を持つ市場定住地」と言う意味だそうですが、「ハーメルン(ハーメレ)」は水車(=粉挽き小屋)を意味すると考えてよいでしょうか?
 その場合、ヴィラ(定住地)、プブリカ(パブリック=公共の場=市場?)とすると、「クヴェルン」は何を意味するのでしょうか?

 グリム ドイツ伝説集 577話「八人のブルーノ」において「ザクセン地方のクヴェルンフルト」と言う名の地名およびそこに住んでいた「クヴェーアフルト」と言う家名が登場します。これは明らかに家名と土地の名前が混同されていると思われます。
 これを「フランクフルト→フランク人の浅瀬」と同じ要領で解釈すると「クヴェルン(クヴェーア)の浅瀬」または「浅瀬のクヴェルン(クヴェーア)」と読むことができます。
 よって、「クヴェルンハーメル」は「クヴェルン(クヴェーア)の水車」または「水車のクヴェルン(クヴェーア)」と解釈することが出来ます。

 クヴェーアで検索するとドイツ語のクヴェアquer(横)が引っかかり、この可能性が高いようです。
 またこの派生語としてqueren(横道)があり、これを当てはめるとクヴェルンハーメレは「水車の横道」と訳すことが出来ます。
 ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレは「水車の横道の市場定住地」と訳すことができ、これは初期のハーメルン集落にぴたりと一致する光景です。どうやら正解っぽいですね。

 ちなみに、上記のクヴェルンフルトは「浅瀬の横道」と訳せば意味が通るので、こちらはそんな意味ではないかと思われます。


 粉挽きが多いということは、周辺は相当な穀倉地帯と思われますが、実際には水車は他の街に比べて多かったと考えられますか?

 粉挽きは(水車利用強制権および悪魔的な意味で)賤民に位置づけられていたようですが、そのような施設が立ち並ぶ風景は当時としては異様なものだったと想像できますが(だからこそ街の名前になった?)、この考えは妥当でしょうか?

 エーフェルシュタイン家はハーメルン市が教会権力から独立するのを支援していたようで、両者の関係は良好であった印象が強いですが、このような状況下でも、やはり粉挽きに対する賤民観はあったのでしょうか。
(粉挽き=権力の座からあぶれた支配階級の血縁者ではないかとの想像に基づく疑問)

 グリム ドイツ伝説集のいくつかの話(521話「ヴェルフ家の起源」、577話「八人のブルーノ」など)において、殺される運命の領主の子供たちを粉屋や水車小屋(同じものであろう)に預けて生き延びさせる展開が描かれています。
 伝説性(信ぴょう性やその描写に至る背景)を考慮すると、粉屋や水車小屋が権力者にとって信頼出来る立ち位置にあったことがうかがえます。



■周辺の城
 南西のアエルツェン、南のオーゼン、グローンデ、ヘーメルシェンなど、10キロ圏内に少なくとも4つの城があったようですが、これは「城の密集地帯」と考えて良いですか?
 それとも、当時のザクセン地方では、10キロ圏内に複数の城が立っているような状況は珍しくなかったのでしょうか。

 天沼先生の紹介で某出版社のすごく詳しい方とお話をする機会を得ることができました。
 当時のドイツには城は280以上あり、ハーメルン周辺の4つ程度では「密集」と呼ぶことはできず、川の周りとしてはごくありふれた風景だったようです。
 ただし、ハーメルン市が軍事的に重要な橋梁を持つ穀倉地帯の中心地であったことは事実で、周囲の城がこぞって影響力を伸ばそうとハーメルン市に介入していたであろうことは想像に難くないようです。



■言語・文字
 当時の識字率は総じて低いと言うことですが、ハーメルン市においてはどうだったと考えるのが妥当でしょうか。
(識字率が高い=ユダヤ人が多い? 前述の通りハーメルン市には定住ユダヤ人が少なかったのであれば、やはり識字率は低かったと考えるべき?)

 当時の「識字率」として扱われる言語は何語だったのでしょうか? ザクセン語? ラテン語?
ザクセン語とラテン語の関係はどのようなものでしたか?
(ザクセン語=ハンザ同盟=商用言語、ラテン語=教会用言語という位置づけ?)
 貴族階級の人間が教養として身に着けていた言語は、ラテン語と考えるべきですか?
 その場合、ザクセン語の教育はあったのでしょうか? (下賎な言葉だった?)

 文字が読めないとされる一般人において、しかし通貨などの数字を読むことは出来た以上、記号としての文字は広く普及していたと考えるべきでしょうか?
(印象よりは割りと文字が読めてる? 複雑な文章は無理でも単語からなんとなくニュアンスが判る、程度?)

 基本的にザクセン語(現在でいう低地ドイツ語)が共用語として使われていたそうです。
 というのも、この辺りはハンザ同盟の影響範囲内で(十四世紀初頭の時点ではハーメルン市はハンザに加入していたというわけではないようですが、影響は大きかったようです)、ハンザ同盟における共用語がザクセン語だったために、商売などで文字を扱う場合、まず確実にザクセン語が使われていたそうです。
 またラテン語に関して、ラテン語はやはり教会用語として扱われ、ザクセン語とは基本的に接点があった様子はありません。
 貴族や富裕層がステータスとして学ぶ場合が多く、それらの点から聖書を読む以外にはあまり実用性がなかったように思われます。(そもそも当時は「学校=教会」で、「勉強=聖書・ラテン語」でした)
 聖書を学生(貴族・富裕層の子供)が学ぶ際には羊皮紙を使うのが普通で、紙で製本された聖書はものすごくレアだったようです。ほとんど美術品のようなもので、やはりお金持ちが自分の知識と財力をアピールするために紙の聖書を持ちだして自慢気に読んで見せる、そんな風景がしばしば見られたと思われる、とのことです。



■経済
 通貨の普及状況はどの程度だったと思われますか? 物々交換はまだ盛んに行われていたと見るべきですか?
 阿部謹也によれば所有権(使用権と解釈したほうが妥当?)が他人に移譲されても、「本質的な所有権」は元の持ち主に残るというが、貨幣にはそのような性質は無かったのでしょうか?
(上記の賤民との関わり方、物々交換から貨幣流通への遷移に繋がった?)

 グルデン、マルク、シリング、ペニヒあたりが多く使用されていたようですが、それぞれの価値は具体的にはどの程度でしょうか?
 早稲田大学の論文「中世ヨーロッパの手工業者Ⅱ」より抜粋すると、

――――
大工,石工,屋根屋:
職人日給
賄い無し:5シリング(約60ペニヒ)
スープ付き:3.5シリング(約42ペニヒ)
賄い付き:32ペニヒ

親方日給
賄い無し:8シリング(約96ペニヒ)
スープ付き:6シリング(約72ペニヒ)
賄い付き:4シリング(約48ペニヒ)

綱匠:日給1~2シリング(約12~24ペニヒ)
床屋・仕立屋・帽子屋:年2グルデン(約1日1.97ペニヒ)
魚屋:年7マルク(約1日4ペニヒ)
――――

1グルデン=約360ペニヒ=約30シリング?(床屋の項より年365日で換算)
1マルク=約209ペニヒ=約17シリング?(魚屋の項より年365日で換算)
1シリング=約12ペニヒ

 この論文では9世紀から18世紀までの記述が見受けられ、この給料に関しては時期を特定せずに書かれているのですが、参考にしても問題ないでしょうか?


■堀
 ハーメルン市には堀はあったのでしょうか?
 1622年に描かれた絵画には明らかに堀らしきものが見えますが、これは14世紀初頭にもあったのでしょうか?
 あったとしたらそれは空堀? それとも水は流れていたのでしょうか?
(水が流れていたとしたら、水車の数や配置に大きく影響する?)


■星に関すること
 中世世界の人々は運命は星によって決まると考えていたようですが、それによって生じる矛盾をどのように解釈していたのでしょうか?
 例えば貴族や王族に生まれた以上、「太陽」のもとに生まれた事になると思いますが、戦争などで敗北して奴隷などに成り下がってしまった場合、「土星」のもとに生まれた事になり、当初の「太陽」と矛盾が生じるのではないでしょうか?

①一人の人間の生涯を後から眺めて「あの人は金星の元に生まれた人だった」などと後付で結論付けていた。(つまり、生きている間は星は推測しかできない)
②生まれた時点で「この子は火星のもとに生まれたので武勲を立てるであろう」などと占われ、矛盾が生じたら「実は土星だった」などのように変更される。
③そもそも星は変化し続けるものであり、原則的にその場限りのものでしか無い。(とは言え、社会的立場がころころと変わる事も多くはなかった為、矛盾が発生すること自体が珍しかった?)


■挨拶・会釈に関すること
 女性の会釈であるカーテシー(スカートの両脇をつまんで軽く持ち上げる動作)は14世紀初頭の時点でも行われていたのでしょうか?
 また、カーテシーはその優雅な動きから上流階級や貴族階級の印象が強いですが、一般庶民や放浪者などもこの動作を自然に行なっていたのでしょうか?
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HN:
凪茶(ニャギ茶)
性別:
男性
職業:
くたばり損ないの猫
趣味:
ドイツとイギリス
自己紹介:
ドイツ・イギリスを中心に中世ヨーロッパの生活習慣、民俗学などを勉強しています。
最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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