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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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疑問点をまとめています。
随時更新予定です。
長いために畳んであるので、右下の「Read more」をクリックしてください。
青字は進展のあったものです。
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小説関係(「小説家になろう」という小説投稿サイトをお借りしています)

ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~
笛吹き男に子供たちが連れ去られてから二十四年後、ハーメルンに暮らす靴屋の少年ネオが冒険と成長のなかで「ハーメルンの笛吹き男」事件の真相に迫っていくお話です。

アーサーの系譜 ~ブリュ物語~
アーサー王伝説の原型のひとつ、「Roman de Brut(ブリュ物語)」のうち、「Arthurian Chronicles(アーサーの系譜)」を翻訳し、読みやすく小説仕立てにしてあるものです。
現在進行形で翻訳中です。完結までには、もうしばらくかかるものと思われます。

アーサーの系譜 ~ブリュ物語~ 直訳
上記「アーサーの系譜」の直訳版です。
小説版では私独自の解釈などが盛り込まれているため、できるだけ原型に近いものを読みたい方は、こちらを併せてどうぞ。

ツイッター
考察やらをポツポツとやってます。
あと、翻訳ホヤホヤのブリュ物語のおおまかなあらすじを呟いてます。



作った資料
中世ドイツの単位
中世イギリスの単位
中世フランスの単位
中世ロシアの単位

ブリュ物語ばっかりだと脳みそがウニになってくるので、息抜きに好きな曲を日本語訳。
洋ゲーBorderlandsの主題歌、「Ain't No Rest For The Wicked」です。
今でもOPでこの曲流れるとテンション上がりますね。
Borderlands2のラストシーンの台詞がこのタイトルそのままで、とても印象的でした。
youtubeで聞けるので、興味があったら翻訳でも見ながらドゾ。



「Ain't No Rest For The Wicked(ロクデナシにゃ安息なんてないのさ)」
歌:Cage The Elephant

俺は道を歩いていたさ
そのとき目の片隅に、
可愛い子ちゃんがこっちに向かってくるのが見えたんだ
彼女は言ったさ「見たこともないね、
こんなに寂しそうな男は
ねえアンタ、少しばかり連れが欲しくないかい?
ちょいとばかし払うもん払ったら
きっと素敵な夜になるよ
アタシをお持ち帰りできるってわけさ」
俺は言ったさ、こんなに若くて可愛い子が
どうしてこんなことをしてるんだい?
彼女はじろりと俺を見て、そんでこう言ったのさ

[Chorus:]
はん、ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
金は木の上に実りゃしないし
札ビラも欲しけりゃ
食い物だっている
オマケにタダで手に入るものなんて、世界に一つもありゃしない
ゆっくりしてらんないし、
立ち止まるわけにも行かないのさ
望みが何かわかるだろ
ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
永遠に目を閉じるまでね

それから15分も経ってない頃
俺はまだ道を歩いていたさ
そのとき、目に入らないところから人影が忍び寄ってくるのに気づいたんだ
そんで、物陰から襲いかかってきやがった
そいつは俺の頭に銃を突きつけた
そりゃもう鮮やかな手並みで、撃つまでもないね
そいつは言ったさ、有り金全部よこしな
欲しいのは金で、アンタの命じゃない
でも、もしも動いたら俺は躊躇しないぞ
俺は言ったさ、全部もってけ
でも、その前に一つだけ聞かせてくれよ
どうしてアンタはこんな生活を?
奴はこう言ったのさ

[Chorus:]
はん、ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
金は木の上に実りゃしないし
札ビラも欲しけりゃ
食い物だっている
オマケにタダで手に入るものなんて、世界に一つもありゃしない
ゆっくりしてらんないし、
立ち止まるわけにも行かないのさ
望みが何かわかるだろ
ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
永遠に目を閉じるまでね

えーと、そんで2時間たった今、
俺は家で座ってたさ
日も暮れて今日も終わりだ
俺はテレビを付けたさ
ニュースにチャンネルを回すと
俺はわけのわからないものを見たんだ
そこには手錠をかけられた牧師が映ってた
なんでも、教会の金に手を付けたんだってさ
そいつは銀行にたんまり金を持ってるってのにだ
それなのに、いや、これ以上は言うまいさ
なぜって、俺にゃみんな同じだってわかってるからね
そうさ、俺たちゃスリルを求めてうろついてるのさ

[Chorus:]
知ってるよな、ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
金は木の上に実りゃしないし
俺たちゃ札ビラも欲しけりゃ
食い物だっている
オマケにタダで手に入るものなんて、世界に一つもありゃしない
俺たちゃゆっくりしてらんないし、
立ち止まるわけにも行かないのさ
俺たちの望みが何かわかるだろ
ロクデナシにゃ安息なんてないのさ
永遠に目を閉じるまでね



ついでにBorderlandsシリーズはスチームで遊べます。(1はPC版だと英語のみですが)
ノリノリサイバーパンクなFPS&RPGで、こっちも超オススメです。
中世ヨーロッパで使用されていた単位を一覧表にまとめました。
覚書だけにしとくのは勿体無いので公開します。
ブログ形式だと表示が難しいため、別ページを設けました。

中世ドイツの単位
中世イギリスの単位
中世フランスの単位
中世ロシアの単位

間違いやお気づきの点などありましたら、コメントなどにてご一報いただければ助かります。

―2014年3月23日修正―
◆ドイツマイル・フレンチマルクの名称を削除。
文献には上記のように書いてあるのですが、国の名前として「ドイツ(ドイチュ)」という単語が現れるのは、15世紀以降です。
後世の視点で他の国との差別化を図るためにこのような記述がされたものと思われますが、「当時の生活で使われていた単位」という趣旨から外れてしまうので、表からは削除しました。
フランス王国という名は10世紀(フランク王国は5世紀)からあり、国をまたぐ行商人や傭兵などが「フレンチマルク」という単語を使っていた可能性は否定できません。
しかし、それを言い出すと、すべての同系列の単位に「フレンチ」だの「ブリティッシュ」だの付け加える必要が出てくるので、この表では削除しておきました。
◆クロイツァーとクラフテルを追加
原則的にドイツ語(および、その元になった各種ザクセン語)では「~er」は「~エル」の発音になりますが、地方や外国人による訛りも多かったようで、一概には言い切れないようです。
とりあえず、はっきり判ってる分だけでも書いていきたいところです。

 後期2回目です。
 今気づいたけど、前回の講義をまとめていませんでしたね。
 後期から参加する方もいるようで、前回はおさらいということでグリムの生い立ちとかやってたんで、取り立てて新しい内容ではありませんでした。よって割愛しときます。



 今回は「ねずの木(柏槇)の話」を中心として、グリム童話の作品としての構成や食人行為などに関する話でした。
 構成としては、初版発行のものと第七版のものとを比較し、後になるに従いそっけない記述が文学性を帯びてくる点が目立ちます。
 追加された要素はいくつかありますが、
 ・単に説明していただけの文章に情景描写が加わる
 ・描写の中には明らかに白雪姫などと被る設定が見受けられる
 ・シリアスな物語の合間に、登場人物の間抜けな描写が散りばめられる(恐らくこれは話の緊張感をほぐすための緩急であろうと思われる)
 子供に読んで聞かせるというコンセプトで編集されたものなので、後の版になるに従って、おどけた描写などで聞き手を惹きつける工夫が凝らされています。
 DVD「ジム・ヘンソンのストーリーテラー」ではお爺さんが言葉を解する犬に語って聞かせ、犬が「ひどい!」とか所々で相の手というか感想を挟み、物語の重苦しさを緩和させる機能を見事に果たしていました。
 そのような機能が版を重ねるにつれて盛り込まれていったようです。
 
 また、ねずの木(柏槇)の話では露骨な食人描写が描かれています。
 私は以前のエントリで食人行為の根底にあるのは飢餓の記憶ではないかと書きましたが、講義によれば、食人行為における宗教的意義も無視することは出来ないようです。
 例えば南米のアステカ信仰などでは、敵の肉や先王の肉を食べていたことは広く知られています。
 敵の肉を食べるというのも色々な意味があるとは思いますが、特に先王の肉を食べると言う行為に限って言えば、「力(=権力)の継承」という極めて宗教的あるいは政治的な意図が見受けられます。
 中世ヨーロッパでも、死んだ聖人の肉を貪り食う民衆の話などが伝えられているそうです。
 また、キリスト教においても、キリストが弟子たちにパンとワインを振舞った際に、「パンは私の肉、ワインは私の血と思いなさい」と告げた例に見られるように、食人行為による力の継承という概念は、形を変えて様々なところに残っているのかも知れません。
 
 ここまで講義を聞いていて思い出したのですが、日本の葬儀にも「骨噛み」と言う、独特な風習を残している地域があります。
 火葬した骨の欠片を食べるのですが、もちろん骨を食べてもお腹は膨れません。この骨を食べる行為には、空腹を満たす以上の極めて宗教的(あるいは感情的)な動機があることが想像できます。
 そして、更に想像を深めると、あるいは「骨噛み」という風習は、形を変えて日本中の葬儀で当たり前に行われているのではないかという推測もできます。
 その根拠は、火葬した際には必ず「箸を使って」骨壷にいれることが当たり前になっていることです。
 なぜ、わざわざ「食器を用いて」骨を骨壷に移す必要があるのでしょう?
 骨噛みの風習は象徴化された形で残り、多くの日本人が意識せぬ間にそれを行なっているのではないでしょうか。


 
 「ねずの木(柏槇)の話」をじっくりと読んでみると、この話には興味深い「不自然な点」がいくつか見受けられます。
 まず、真っ先に思ったことは、タイトルの不自然さです。
 このタイトルは直訳されており、ドイツ語でも同じ意味だそうです。
 この物語は、アウトラインだけを追うと、「意地悪な継母に殺された少年が、鳥の姿になってあちこちで告発の歌を歌い、最終的に継母を殺して人間の姿を取り戻すお話」です。
 はっきり言って、ねずの木はほとんど関係ありません。物語だけを見てタイトルにするなら、私がグリムの立場であれば、まず間違いなく「歌う小鳥の話」と名付けていたことでしょう。
 では、ねずの木はこの話の中でどのように登場するのでしょうか。
 
 ①子供を望む母親が、ねずの木の下で手を切り、鬱になる。
 ②母親が、ねずの木の下で願望を口にすると、鬱から回復する。
 ③母親が再び鬱になり、ねずの木の下に行くと回復する。
 ④母親が、ねずの木の実を食べることで悲しみに襲われ病気のようになる。
 ⑤遺言に従い、母親はねずの木の下に埋葬される。
 ⑥マルレーン(妹)が、殺害された少年の遺骨をねずの木の下に埋め、それによって悲しみが晴れる。
 
 以上です。
 埋葬に関しては、物語として意味が見出せますが、①~④に関しては、まったく意味不明です。これらは初版の時点から記述されているのですが、物語の構成として必要だとは、とても思えません。
 そして、その上でこの不可解なタイトルが付けられているのです。
 ここまで書きだして明らかになるのは、「鬱」と「欝からの回復」と「ねずの木」には、強い関係があるということです。
 また、これに関連して、もうひとつ気になる描写があります。
 物語の終盤で、少年の復活を予感した(らしい)父親が、非常に良い気分になるのですが、その中で「そこらじゅう肉桂のにおいがする」と言います。
 ここにおいては、欝からの回復に際してねずの木ではなく「肉桂のにおい(スーッとした香り)」がキーポイントになっています。
 
 ここで、wikipediaにて「ねずの木(セイヨウネズ)」の項目を調べて見たいと思います。
 
 ――引用ここから――
利用
 この木はよく園芸用に使われるが、小さいため他の木材のように使うことはできない。しかしスカンジナビア半島では、バターやチーズなどの日用品を入れる入れ物や、木製のバターナイフとして加工される。
 
 収れん作用を持つ紫色の熟した松かさは生で食べると苦いが、乾燥させて肉、ソース、ファルス、ジンなどの香り付けに使われる。実際にジンという言葉はネズの類を表す フランス語: genevrier (ジュネヴリエ)もしくはセイヨウネズを表す genievre (ジュニエーヴル)に由来する。
 
 また味もとても強いため、ジビエや舌など、癖の強いものの調理に少量だけ使われる。フィンランドの伝統的なビール「サハティ」(Sahti)を作るためにも必須である。さらに、ローマ帝国のペダニウス・ディオスコリデスによる『デ・マテリア・メディカ』(『薬物誌』、『ギリシア本草』)には、避妊用に使われたと記述される。
 ――引用ここまで――
 
 利用法として、「乾燥させて肉、ソース、ファルス、ジンなどの香り付けに使われる」ことが挙げられており、ねずの木は、肉などの臭みを打ち消す(つまり、スーッとした)香りを持っていることが読み取れます。
 となると、①~⑥に示した「鬱」と「欝からの回復」と「ねずの木」を結びつけるものは「肉桂のにおい(スーッとした香り)」と考えることが出来るのではないでしょうか。
 
 結論を言いますと、この童話の原型は、日本で言うところの「お婆ちゃんの知恵袋」のような民間療法の一環で、古来、悲しみや苦しみによる鬱を癒すものとして「ねずの木」が利用されてきたことを伝えるものではないかと推測します。
 この民間療法の言い伝えに様々な肉付けが行われ、いつの間にか「小鳥になって歌う少年」の話へと変化したものと思われます。
 そう考えれば、各地の民話を蒐集していたグリムが、この言い伝えの根本にあった意義「ねずの木の薬効」を風化させないために、あえて「ねずの木(柏槇)の話」というタイトルを付けたのではないかという説明ができるわけです。
映画「薔薇の名前」をレンタルしました。

視聴のテーマは「皮剥ぎ職人と修道院の関係」について考察することです。
以前に頂いた資料で、「そもそも屠殺場は修道院や教会の敷地の近くにあり、水辺に追いやられたのは一九世紀に入ってからである」との記述があり、今までに読んできた資料と矛盾するこの内容についてグリム講座の先生に質問したところ、資料の一つとしてこの映画を教えていただけました。

内容は、1327年北イタリアの修道院を舞台に殺人事件の謎を解く、ショーン・コネリー主演のサスペンスものです。
お話的には目の肥えた今見ると別段ひねりのないサスペンスでしたが、舞台や背景の描写の緻密さは特筆に値します。
(もちろん映画としては面白いほうに分類されますが、個人的にはやはり舞台装置や垣間見える当時の常識のほうに目が行ってました)

そんな舞台装置ですが、山の上の修道院で周囲には乞食同然の農民の集落がある状況で、修道院の中に屠殺場があるという風景は確かに珍しいものです。
本来、屠殺業は皮剥ぎ職人と呼ばれ賤民視されており、水の近くに追いやられていたはずです。
少なくとも水車小屋より上流にあったとは到底考えられません。なぜなら、水車小屋の上流に屠殺場があると、血が流れ込み真っ赤に染まった水を水車が巻き上げるという、凄まじい光景になってしまうからです。
パン(当時としては最も神聖な食物の一つです)を作る小麦粉を挽く水車が血に染まっている光景など、絶対にあり得ないと言っても過言ではないでしょう。
一例をあげると、中世ヨーロッパの都市の生活(F・ギース/J・ギース著)を読むと1250年トロワの風景にて、次のような記述があります。

――引用ここから――
肉屋と皮なめし屋は一一世紀に増え、その結果、都市に典型的な問題が生じていた。ヴィエンヌ川の川底がごみであふれたのである。シャンパーニュ伯アンリ一世はセーヌ川上流から川底をさらわせ、ヴィエンヌに流れ込む流量を増やしてごみを流す作戦をとった。それでも、肉屋と皮なめし職人の住んでいる地域は市街地の中で最悪だった。
――引用ここまで――

ここで言う肉屋とは、別のページでは「肉屋街では、店で動物を殺すため」とあるため、イコール皮剥ぎ職人と考えて良いと思われます。
以上を踏まえると、修道院の内部に皮剥ぎ職人がいる風景というのは、いささか違和感を禁じえません。
また、この修道院は山の上で、水や川はまったく描写されていなかったので、おそらく粉挽きは水力ではなく人力だったのでしょう。
しかし、そうでなくとも、周囲に農民がいくらでも住んでいるのですから、皮剥ぎ職人はその近辺に追いやられるのが筋だと思われます。
しかし、ここでは修道院が一つの都市のように強固な壁で隔絶され、周囲の農民には近づくことのできない空間が作られており、インフラは全てその中に収まっているように見えました。

この辺りが実際にどうだったのかは、なにしろ当時の資料が少ないため、「わからない」としか言い様がありませんが、想像によって辻褄合わせを試みることはできます。
いわゆるバン領主制度に見られるバナリテ(使用強制権)などの「強力な権利を行使する者」が教会に近い立場にいる(=教会の支配力が強い)地域では生活必需職(粉挽きや皮剥ぎ職人も含む)を教会や修道院が完全に囲い込み、そうでない(=教会の支配を脱している)地域では、居住区から離れた水際へと追いやられていたのではないでしょうか。
例えば、ハーメルンの北西に位置するミンデン市などは、一三世紀までは司教区として教会の一大勢力圏でしたが、一四世紀に入ると教会の支配力は衰え、市参事会が代わりに力を得て行きます。
こういった変遷の中で、皮剥ぎ職人や粉挽きなどの「賤民視されつつも特権を持っていた職業」がどのように変化していったかを知ることが出来れば、大きなヒントになるように思います。(リューネブルク写本を読んでみたいところです)

先にも言った通り、映画の舞台となる修道院は山の上なので川や水がほとんどなく、屠殺の際に出た血液を瓶に貯め込んでいましたが、あれはいったいどのように処分されたのだろうかが気になります。
同じく映画の中では食べかすなどのごみを裏口から投棄して、そこに貧民が群がる描写がありましたが、同じように貧民のいるところに容赦なく流していたのではないでしょうか。
強力な権利を壁の中に囲い込む教会と、その周辺に群がる貧民という大局的な構図が、とても印象的でした。
また、神学論議を口実に財産の没収をもくろむ教皇庁と、それに抵抗する修道院など、当時の力関係なども映画を通して見えてくるようで、色々な面で楽しめる映画でした。
ちょいと私事がゴタついて滞ってます。
今回、文章もあまりうまくまとめてないのですが、記憶が薄れてしまう前にアップだけしときます。
そのうち読みやすく整理したいと思います。

――――

講義6回目、今回で一応終了です。
……と思ったら、後期が9月から始まるようですね。
まだ楽しみが続きそうです。

森に関するお話。
現在のドイツの森林面積は29.3%ほど、その大半は針葉樹林だそうです。
しかし童話などに出てくる物語のイメージでは、ぐにゃぐにゃと曲がりくねった、いわゆる針葉樹ではない広葉樹が多い気がします。
また次のような「ドイツ人の好む三大樹木」というものがあるそうで、オークはその筆頭だそうです。
①オーク(ブナ科、ミズナラ、勇気、健康、豊作、などの象徴、雷神の木)
②菩提樹(セイヨウボダイジュ、東洋の菩提樹とは別物)
③もみの木(ドイツトウヒ)
では、これらの広葉樹はどこにいったのでしょうか?
どうやら、森林伐採をやりすぎた結果、森林面積が最盛期の1/3にまで減ってしまったそうで、あとから植林したものが針葉樹だということです。

タキトゥス(西暦100年頃)のゲルマニアによれば、ゲルマンの地を旅した時の様子に「60日間歩いても森が続く」と言う表現があるそうです。
1日10km歩いたとしても、600km以上の森林があるわけで、古代ドイツが如何に森の国であったかが窺い知れます。
森林伐採は中世時代から近代にかけて継続的に行われていたようで、その主な用途は燃料でした。
泥炭などがまだ使われていなかった時代は、薪はほとんど唯一のエネルギー源だったようです。
また、中世時代には森はもちろん未知の世界でしたが、豚の放牧地として使われていたようです。豚の餌としてドングリなどの木の実を食べさせていたわけです。

グリム童話においても、森は非常に頻繁に物語の舞台となっています。
有名なヘンゼルとグレーテルも飢饉で家を追われた兄妹が森の中で魔女の家に迷い込み、魔女を撃退して無事に家に帰る話です。
またハリネズミのハンスも呪いによってハリネズミのような外見で生まれたハンスが家を追われ、森の中で豚を増やして街に戻り、お姫様と結婚する話です。
赤ずきんも森の中が舞台で、ここでは「おばあさんが森の中で一人で住んでいる=姥捨て森?」のような背景が見受けられ、当時の森と人間との関わりかたを推測できます。

グリム・ドイツ伝説集でも森の話は非常に多く、特に、「殺されるべき運命の子供が森で生き延びて、成長して復権する」という話が目立ちます。
これらから、森の中には何か人知の及ばぬ、あるいは神聖な力があると考えられていたことが推測されます。

ところで、先ほどのヘンゼルとグレーテルですが、「ヘンゼル(Hansel)」や「グレーテル(Gretel)」の最後の二文字「el」は日本語で言うところの「~ちゃん」に相当するそうです。つまりヘンゼルとは「ハンスちゃん」と言う意味です。
これを踏まえて「ヘンゼルとグレーテル」および「ハリネズミのハンス」を見ると、
①家を追われたハンスちゃんが
②森に行き、
③森の中で財産(魔女の宝、あるいは増やした豚)を得て、
④街に戻る
と言う構造が一致していることが分かります。
もしかしたら、この二つの話は原典が近いのかも知れません。
もっとも、「ハリネズミのハンス」は、ハンスの純粋なサクセスストーリーなのに対し、「ヘンゼルとグレーテル」は泣き虫だったグレーテルが魔女との戦いを通してガラリと成長しており、話の構成がかなり複雑です。「森の中における女性の変化」なる要素も見え隠れしているようです。
後者は別々の物語を組合わせたものなのかも知れません。

――――

中世ドイツの森に関しては、まだまだ分からないことが多く、調べる余地が大いに有りそうです。
タキトゥスの時代、ドイツの多くの地域が森林であったことを考えると、古代から中世にかけて、つまりキリスト教の席捲にあわせて凄まじい勢いで森林が伐採されたわけで、14世紀初頭はその真っ只中といったところです。
同時に、この頃に東欧への植民が盛んに行われていたことから、森林伐採は南西から始まり、東へ東へと進められたと考えることができます。

浅草のかわとはきもの博物館に行って来ました。
あまり多くはありませんが、様々な時代、国の靴のレプリカが展示されており、その造りなどじっくりと見てこれました。
(もっとも、国内でこう言った展示をしているところ自体が殆ど無いので、ここはかなり多いほうだと思います)
博物館の方に話を聞けないものかと相談したところ、かなり詳しい年配の方を紹介していただけ、興味深い話をたくさん聞けました。
また、世界の靴の歴史について書かれた本(詳しくは判りませんが、その方もコピー本しか持っていない、どうやら相当珍しい本の模様です)の一部をコピーさせて頂けました。
ドイツ農民の靴の代表格ともいえる「モカシン」の構造などがかなり判りやすく図解されており、非常に参考になるお土産になりました。
肝心の本のタイトルをメモするのを忘れたのが、痛恨の失敗です。



■靴のタイプおよびその作り方は、どのようなものだったか。

一般庶民や農夫はモカシンと呼ばれる足袋を簡素にしたもの(殆ど革袋)を使用していたが、靴底などパーツごとに分けて作る(いわゆる現代のような靴)も作られてはいたようです。
ただし、現代のものと全く同じような形状かというとそうでもなく、
①左右の区別がない
 右足と左足で履き分けることはなく、現代におけるスリッパのように、左右別だと不便だという認識の方が強く、脚の健康の概念はほぼなかったようです。
②靴型と呼べるものも無かった
 ①に関連して、そもそも精巧に足の形に合わせて作るというものではなかったようです。
③ヒールは高くはなかった
 高価な釘を靴に使用することはなく、産業革命以前は靴は全て手縫いだったようです。
 当然、靴底の厚さにも限度があり、縫うことが出来る厚さが靴底の厚さの限界だったようです。


■(特に一般庶民において)靴のサイズなどは個人に合わせたりしたのか。
それとも、大人用と子供用くらいの区別しか無かったのか。

大人用と子供用くらいの区別はあっても、個人レベルのサイズ調整は殆ど無かったようです。
例外的に王侯貴族などは個人用の調整があったようですが、現代のように「自分にあったサイズ」を探せるようになったのは、やはり大量生産が可能な産業革命以後だそうです。


■昔話に出てくる靴屋の小人や妖精の話には、しばしば夜中に木槌を叩いている
音が描かれるが、これは靴作りのどのような工程の描写だろうか?
革を叩いて柔らかくしている?

恐らくYESだそうです。
昔話の舞台にもよりますが、靴屋で「釘を打つ」と言う行為が行われたのが産業革命以後の話なので、それ以前ならば革を柔らかくする目的と考えるのが妥当なようです。
また、革の硬さも靴にまつわる問題の一つだったそうで、出来上がったばかりの靴はとても硬く足を痛めてしまうため、こなれて柔らかくなるまでは召使いに履かせておくなどと言うこともしばしばあったようです。
この点から鑑みても、革を柔らかくするために木槌で叩いたことは、充分に考えられるそうです。



他にも聞きたいことは山程ありましたが、なにぶんにも突然の訪問だったため、時間が押してしまいました。
忙しい中教えていただけた担当の方に感謝です。
浅草駅の周辺には、他にもいくつか皮革関係の博物館や資料館があるので、またそのうち見に行きたいところです。
課題としては膠の材料(恐らく牛の革や軟骨だとは思うが)や、その保管方法などを聞いてみたいところです。
中央大学の公開講座「グリム童話200年の秘密」
申し込み人数が少なすぎて開講が危惧されていたようですが、今日連絡があって無事に開講することになったそうです。
良かった良かった。
講師の先生に色々聞きたいことがあるので、個人的に質問する機会があれば良いのですが……。
グリムの「赤ずきん」が映画化と言う事でレンタルしてみました。

うーん、ストーリー的にははっちゃけ過ぎて、ごく普通のファンタジーと言ったところでしょうか。
謎解きを見せたいのか、恋愛ドラマを見せたいのか、今ひとつピンとこないお話でした。

舞台演出に関しては良く出来てた方ではないかと。
ドイツ北部が舞台と思われる村や家屋、祭りの様子などが細かく描写されており、特に祭りのシーンでハーディ・ガーディが出てくる辺り、中々凝った演出を見せてくれます。
中世楽器の定番バグパイプが登場しなかったのが残念といったところでしょうか。
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プロフィール
HN:
凪茶(ニャギ茶)
性別:
男性
職業:
くたばり損ないの猫
趣味:
ドイツとイギリス
自己紹介:
ドイツ・イギリスを中心に中世ヨーロッパの生活習慣、民俗学などを勉強しています。
最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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