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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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ハーメルン市で起きたことについて想像を巡らせてみる試みです。
まずは推測とかを抜きに、どうやら間違いないらしい史実のみを抜き出します。
エーフェルシュタイン家の足跡その1と被る部分が大きいです。

――――

◆1259年
神聖ローマ帝国のフルダ修道院が、既に手を離れてしまった(手に負えなくなってしまった)ハーメルン市の実権をミンデン司教区に売却したこと。

◆1260年
7月28日、ミンデン市教区がハーメルン市に宣戦布告したこと。
廃村ゼデミューンデで戦闘があり、ハーメルンの若者が大勢死んだこと。
その結果、ハーメルン市の最大勢力だったエーフェルシュタイン家が敗北したこと。
この戦闘の際にハーメルン市を守ろうとした若者(※)が大勢捕らえられ、皆殺しにされたこと。
9月13日、ハーメルン市の実権を、ミンデン司教区とヴェルフェン家率いるブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国とで折半すると言う取り決めが交わされたこと。

◆1277年
ハーメルン市のボニファティウス律院とヴェルフェン家との間でハーメルン市の権益に関する取り決めが交わされている(実質的に街の支配権をヴェルフェン家が乗っ取った)こと。

◆1284年6月26日
ハーメルン市の子供たち130人が、笛吹き男に連れられ失踪したこと。

――――

※「若者」に関する考察
若者と言いますが、年齢に関する正確な記録は(少なくとも手元には)ありません。
あえて言うのであれば、当時の常識としては子供・若者という概念はあまり無く、基本的に6歳を超えたら大人と同じ扱いを受けていたようです。
逆に言えば、あえて「若者」という記述が残っている以上、「大人(一人前)未満」であり、かつ「6歳以上」であった事が読み取れます。
つまり、農家の子供や職人の徒弟などが戦闘に参加したと推測できるわけです。

となれば、大人は戦わなかったのか? と言う素朴な疑問が当然湧きます。
もちろん戦ったでしょう。ヴェルフェン家の軍隊に対して子供だけでは戦闘にならないことは明白です。
梅原猛流の解釈をすると、わざわざこのような「子供が戦った」と言う記録が残されているという事は「それが歴史的に特殊なことであった」という表れと言えます。
何故ならば、戦争で大人が死ぬのは「当たり前だから」です。
「若者が戦い、死んだ」という記述は、もちろん大人も大勢死んでおり、その上で「大勢の子供も戦いに参加し、死んだ」つまり「特筆すべき痛ましい事件だった」と解釈すべきと思います。

――――

象徴的な出来事のみを列挙すると、これくらいでしょうか。
興味深いのは1260年のゼデミューンデの戦いです。
「この歴史こそがハーメルンの失踪事件の真相であり、笛吹き男とは軍隊の先頭を行くラッパ吹きだった」
このような説がドイツでは近代まで有力視されていたそうで、ドイツ政府が国民に民族意識を鼓舞する為にこの伝説を利用していたようです。
しかし、多くの古文書が失踪事件は1284年6月26日に発生したと記録しており、また1260年~1284年の間にもハーメルン市には政治的に多くの変化があったため、この24年の差を「誤差」として済ませるには無理がありすぎると指摘されています。
しかし同時に、「1260年7月28日に戦闘開始、ゼデミューンデにてハーメルン市の多くの若者が命を落としたこと」は、間違いない事実のようです。

――――

さて、ここからは想像の話になります。

1260年に多くの若者が死んだことは事実。
1284年に130人の子供たちが失踪したことも事実。
つまり、1260年の戦争による犠牲のわずか24年後に、ハーメルン市は「二度目の子供たちの消失」を体験していることになります。
24年。当時の感覚では、1260年の戦いを生き延びた市民がヴェルフェン家の支配の元で新たな子供を作り、その子供が大人になり子供を生むのに充分な時間と言えましょう。
(重ねて言いますが、当時は6歳を超えると大人と同じ扱いです。特に隷農や乞食など、ツンフトに縛られない者たちは、身体的に可能になり次第子供を作ることが出来たはずです。仮に(現代日本的な常識を無理やり当てはめて)18歳で子供を作ったとしても、1284年には6歳になっている計算になります)
つまり、1284年に失踪したのは、「生き延びた市民の孫世代」と言うことになります。

同時に、戦争でハーメルン市を勝ち取ったヴェルフェン家ですが、当初はその権益をミンデン司教区とヴェルフェン家で折半しています。
実質的にはヴェルフェン家は1277年にようやくその権益の大半を手に入れてるわけで、「ハーメルン市を完全に掌握するのに手こずった」と言う印象を受けます。
ここに、旧エーフェルシュタイン家を支持しゼデミューンデで子供を失った市民とヴェルフェン家の間に、極めて深刻な対立関係があったことが推測されるわけです。
そして、その軸線上に1284年の子供たちの失踪があります。
時期的には、「戦争で勝利し、実権を掌握し、あとは市民を黙らせるだけ」こんな状況を想像することが出来るのです。

結論を言うと、「ハーメルンの子供たちの失踪事件」は、「ヴェルフェン家によるハーメルン市掌握のための工作の一環」だったのではないかと、私は推測します。
ただ、他の要素として、この時期は東ヨーロッパへの植民が盛んに行われた時期と一致するのも事実で、東欧植民説を否定する材料もありません。
(現に東プロイセン(現在のリトアニア付近)に酷似した伝説を語り継ぐ村があり、これがハーメルンの子供たちの子孫だという説もある。この考察の大前提となっている阿部謹也氏が研究を始めたきっかけのエピソードでもある)

あるいは、この辺りもごちゃまぜにして考えたほうが良いのかも知れません。
植民請負人(これが笛吹き男の正体だとする説も有力)なる者の存在もちらついており、その語感からは、東欧への植民が大きな利益をもたらす事業であった事が伺えます。
ヴェルフェン家が率先してこのような事業を行なっていたとしても、何ら不思議はありません。
敗北して尚もエーフェルシュタイン家を支持する言わば「残党」の子供たちを人質兼奴隷にする形で東の地方へ連れ去った、なんて説はどうでしょう。

なんか、ヴェルフェン家の子孫の方が読んだら怒られそうですね。
怒られませんように……。
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最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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