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中世ヨーロッパ史に関する個人的覚書
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ツイッターに投稿したあらすじのまとめです。
読みや内容について後になってから判明したものなど、ツイート時より少々変更が加えてあります。
なお、番号は英文におけるパートで、全体で120パートで構成されています。
ここではパート1~60までを紹介します。


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ツイッターに投稿したあらすじのまとめです。
読みや内容について後になってから判明したものなど、ツイート時より少々変更が加えてあります。
なお、番号は英文におけるパートで、全体で120パートで構成されています。
ここではパート61~120を紹介します



■獅子心王リチャード1世の憧れたアーサー王伝説

 現在翻訳中のブリュ物語について、少々解説をしてみます。
 1155年、フランスの詩人ワース(ウァースとも)によって書かれたこれは、一般的にはアーサー王伝説の原型のひとつとして知られている、詩歌の形で綴られたイギリスの偽史です。
 なにがどう偽史なのかを説明するためには、イギリスの歴史に触れる必要がありますので、少々お付き合いくださいませ。
 まず前提としてブリテン島の住民は次のように遷移しています。

 ・ケルトおよびガリア人(紀元前)
 ・ローマ帝国(1世紀)
 ・アングロ・サクソン人(現在の北ドイツからの居住者、4~6世紀)
 ・ノルマン人(ノルマンディー半島に住み着いたスカンジナビアおよびデンマークなどの北欧人、11世紀)

 この後、フランスと交わりプランタジネット朝の時代になり、民族・血統の面では現在に近い形が出来上がるわけです。
 さて、1136年、歴史学者ジェフリー・オブ・モンマスがブリテン王朝の歴史書を書いたのですが、そこでは前述したような民族・血統の遷移が完全に無視され、当時のブリテン人(つまりノルマン人)がそのままローマ帝国の末裔として、つまり歴史の始まりからブリテン島を統治していたかのように書かれたのです。
 当然ながら、4世紀~のアングロ・サクソン人の襲来などは、あたかも「我々(当然、この「我々」はノルマン人ということになります)の土地をサクソン人が襲った」と読み取れる形で書き記され、当時のブリテン民衆はこの歴史書を強く信じてしまいました。
 ブリュ物語もまた、この偽りの歴史にもとづいて書かれたために「偽史」と呼ばれているというわけです。

 では、偽史であるこれらの歴史書や詩歌にはなんの意味もないか、完全に嘘だけかというと、決してそんなことはありません。
 ジェフリー・オブ・モンマスは、自分たちの歴史書として書いたものの、しかしその内容や出来事に関しては、ブリテン島に古くから伝わる伝説や民話を中心に書いていたのです。
 つまり、「我々の祖先の物語である」という意味においては完全に偽史ですが、その一方で、「かつてブリテン島でなにがあったか」を知る意味では、これ以上ないほどに貴重な資料でもあるのです。
 そして、ジェフリー・オブ・モンマスの記した偽史「Historia Regum Britanniae(ブリタニア列王史)」こそが、現在我々が知るアーサー王伝説の原型というわけです。
 ※正確には、これ以前にもアーサーに関する伝説や民話はありましたが、それらはひとつにまとまっていないバラバラの状態でした。これに時系列を与えて一本の物語としてまとめたものがブリタニア列王史におけるアーサー王伝説なのです。

 さて、ここで少し話は飛びますが、1152年、とある結婚式が執り行われました。
 フランス王妃だったアキテーヌ領の女主人エレアノールが、フランス王ルイ7世との不仲の末に離婚し、イングランドの国王ヘンリー2世と再婚したのです。
 このエレアノールに関しても色々と逸話は多いのですが、あまりにも多いのでここでは割愛して、彼女がイングランドにもたらした変革について述べましょう。
 彼女が治めていたアキテーヌ領、つまり南フランスは、当時のヨーロッパ世界ではもっとも華やかで、もっとも宮廷文化の進んだ土地でした。温暖な気候に恵まれ、豊かだったために、潤沢な宮廷文化が育つ土壌があったわけです。
 そんな華やかな世界で生きてきたエレアノールが、突然バイキングの末裔の支配するイングランドに嫁いできたのですから、なんの苦労もないはずがありません。
 彼らの粗暴な文化に彼女はとても耐えられず、しかし、強い彼女はめげることもなく一念発起し、ある決意をしました。

「イングランド人に宮廷文化を叩き込もう」

 積極的に活動した結果、彼女の周りには詩人や芸術家が集まり、華やかな振る舞いや優雅なやりとりの文化がここで育くまれました。
 そんな中で彼女に献上された詩歌のひとつが、1155年、詩人ワースによる「Roman de Brut(ブリュ物語)」でした。
 ジェフリー・オブ・モンマスのブリタニア列王史はラテン語で書かれていたため、何度かロマンス語(当時のフランス語)に翻訳され、アレンジもされていました。
 その中でも宮廷文化に関する記述をふんだんに追加して、簡素な歴史書だったブリタニア列王史を、華やかな騎士物語へと昇華させたのがブリュ物語なのです。
 例えば、「円卓の騎士」はブリュ物語ではじめて登場したもので、ブリタニア列王史の時点では存在しません。
 同じように、更に後世になってから追加された要素も数多く、湖の騎士ランスロットや彼と王妃ギネヴィアの道ならぬ恋、パーシバルの聖杯探索などは、ブリュ物語の時点では登場していません。
 もう一つ加えますと、ブリュ物語には、アーサー王が死の間際にエクスカリバーを湖に返還するエピソードは存在しません。(このエピソードは15世紀に追加されたそうです)
 ブリュ物語においては、アーサー王亡き後のエクスカリバーの行方については語られず、よって、当時の人間は「エクスカリバーは、アーサー王とともにどこかに眠っている」と考えていたようです。これについては後述します。
 (この辺りの整理の必要性が生じ、翻訳を開始したという事情があります(笑))

――――――――

 エクスカリバーについて少々。
 王妃エレアノールの息子のひとり、獅子心王リチャード1世は、おそらく幼少の頃よりこの物語を読んで、騎士物語に目を輝かせていたのでしょう。
 彼は、自分の剣を「エクスカリバー」と呼び、周囲にもそのように呼ばせていたそうです。
 また、甥にも「アーサー」の名を付けてしまうほどの入れ込みようで、その傾倒ぶりが伺えるというものです。(ちなみに彼は男色家であったため、子供はいませんでした……)
 このリチャード1世のエクスカリバーですが、彼に関する歴史書のほとんどにおいて、まともに言及されていません。どうやら、夢見がちな若者の若気の至りとして見る向きが主流な模様で、取るに足らない事柄だと思われているようです。

 しかしその一方で、父親のヘンリー2世もまたアーサー王伝説の虜だったそうで、興味深い逸話を残しています。
 それによれば、彼はグラストンベリ修道院にあるというアーサー王の墓を、吟遊詩人の口伝を頼りに発掘し(あえて「暴き」という表現は避けておきましょう(笑))、見事エクスカリバーを探し当てたというのです。
 この言い伝えが本当かどうかは、今となっては知るすべもありません。
 ……しかし、恐らくボロボロに錆びていたであろう伝説の剣をヘンリーが再び打ち直し、それを息子リチャードに受け継がせたと考えたら……。
 あるいは、「リチャード1世のエクスカリバー」は、計り知れないほどの巨大な歴史浪漫を秘めているのかも知れません。
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くたばり損ないの猫
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自己紹介:
ドイツ・イギリスを中心に中世ヨーロッパの生活習慣、民俗学などを勉強しています。
最近はブリュ物語の翻訳ばかりやってます。
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